Ⅸ. イエローイングレー ... 2



 残されたのは、涙が止めどなく流れてくる私と、マルコさん。頭では泣いたって仕方ないとわかっているのに、心がずきずきと痛む。
 オスカーさんは一時間くれると言っていたけれど、私の選択肢はないに等しい。
 もし、私がオスカーさんの提案に載らなかったら。私はルカの関係者に狙われるかもしれない。実際に狙われるかはわからないけれど、少なくともその恐怖とは毎日格闘しなければならない。私はそんなに強くない。ルパンたちを当てにもできないし、したくない。だから私は、オスカーさんの提案を受けるしかない、……。
 それに。たとえオスカーさんの言うことに反して、ルパンたちには真実を語ったところで、ルパンがもう関わるなと言ってくるかもしれない。今回私がこんな目に遭ってしまったせいで。
 遅かれ早かれルパンたちとの別れはやって来る。それなら、なるべく迷惑をかけないかたちで、彼らの前からいなくなったほうがいい、……。

 わかっていた。いつまでもルパンたちと楽しい夢を見られるわけじゃないと。でも、それがこんなかたちで終わるだなんて。
 ううん。こんなかたちでないと、終わらせられなかった。ルパンへの想いは。だから、これでいいんだ。何度も諦めようとして、できなくって、その繰り返しだった。だから、一度自分をリセットしてやり直すというのは、私にとって良いきっかけなのかもしれない。

「あの……オスカーは口は悪いけど、根はいい人じゃないんですよ」

 涙がしだいに枯れてきた私に、マルコさんは遠慮がちな笑顔を向ける。

「わかります。冷たい人だったら、あんな提案はしないですよね……」

 私の身を案じていないのだとしたら、私がどうなろうとオスカーさんの知ったことではないだろう。

「そうですね。そうだけど、でも、お金はきちんと頂きます。一応僕たちの“仕事”でもあるし、だからこそ完璧にこなせるので」
「ええ……そうしてくれたほうが信頼できます」

 何の仕事だろうと思ったけれど、今は深く訊ねないでおいた。それよりも、彼と話すことがある気がして。

「どうですか。答えは出そうですか」

 マルコさんは訊ねる。私は腕の力を振り絞って、涙を拭った。上半身を起こそうとしたけれど、それは無理だった。胸が痛いし、身体も重い。

「……ええ。わかって……いるんです。他に選択肢がないことは。でも……」

 マルコさんは静かに微笑んで、ベッド脇にあったスツールに腰掛ける。

「気持ちのいい人ですもんね。ルパンも、次元さんも」
「知ってるんですか?」
「ええ。たまに店に来るので」
「お店?」

 マルコさんはいくつか説明してくれた。オスカーさんとマルコさんは、この建物の一階で修理屋   武器から日用品まで直すらしいけれど、主に銃の修理やメンテナンス   を営んでいるということ。けれども、“闇医者”としても活動しているということ。もっとも、自ら闇医者になろうとしたのではなく、訳ありの怪我人を何人か診ていくなかで、広まっていった話なのだそう。ふたりは元医師だけれども、医師の世界の悪しき面を見て辞めたらしい。
 ルパンと次元は、主に銃の修理の依頼や、お店に並ぶガラクタを買いにくるのだとか。

「そう……なんですか。あ、あの、そういえばここは、どこなんでしょう?」
「ニースからだと、北に入った山奥ですよ」

 そうなんだ。どれくらいニースと離れているんだろう。それにしても、私は近くに診てもらえる人がいて本当に幸運だったんだ。

「私……危なかったですか?」
「そうですねぇ。助かったのは、運が良かったですよ。まず、銃弾が貫通していたのが良かったですね。体内に弾が残っているということは、身体の組織を傷つけた怖れもありますから。異物が身体のなかにあるのも良くないですし。その“異物”に反応して死んじゃう人もいるんです。あと、当たりどころも間一髪でしたよ。心臓からは外れて、まあ肺と骨が傷ついてましたけど。頭や腹部だったら死んでましたね。それに、ここに運ばれるのがもう少し遅かったら、危なかったです。出血とかショックで亡くなっていたかも」

 さらりと語るマルコさん。私は全身に鳥肌が立った。
 銃で撃たれて、死の淵にいたあのときは、死んでしまってもいいかもしれないなんて思っていた。ルパンの顔が近くあって、ルパンの声を聞いて最期を迎えられるなら、なんて。でも、死んでしまったら“無”だ。なにもない。そう考えるとぞっとした。いまこうして考えたり痛みや悲しみを感じたりしている私は、いないんだ。本当に、紙一重だったんだ。

「あ、怖がらせてしまってすみません。でも、全部本当のことなんですよ。五体満足なのは奇跡です。ルパンたちに感謝したほうがいいですよ。彼らがここにあなたを連れてくるのが遅れたら、止血してくれていなかったら、もしかしたら今のあなたはいないかもしれない。ルパンなんて血相を変えていましたし」

 ルパンが? まさか、……でも……そうなのだとしたら、不謹慎にも嬉しいと思ってしまう。
 私を抱えてくれたときのルパンのようすを思い出した。『馬鹿やろう』   思い切り怒鳴られた。でも、とても真剣な表情をしていた。心配してくれたのかな……。
 はっとした私の顔を見て、マルコさんはばつが悪そうに笑顔を引きつらせた。

「あっ、……感謝したくてもできないかもしれないんですよね……すみません、余計なことを」

 そう、そうだった。もうルパンたちとは縁を切ろうと、決心しようとしていたところだった。でも、せめて最後にもう一度、ルパンと、五エ門と次元に、ありがとうと言いたかった。
 けれど、彼らにひと目でも会ってしまったら、私の決心は揺らいでしまいそう。

「私、   ふつうに生きて行くのがいいんですよね……きっと」

 自分に言い聞かせるように、私はゆっくりと呟いた。マルコさんはそれには答えず、しばらくじっと黙っていたけれど、やがて言った。

「じつはね。オスカーがあなたのことに躍起になるのには、理由があるんですよ」
「えっ?」

 私は目線を上げマルコさんを見る。マルコさんは苦笑いのような笑みを浮かべていた。

「オスカーに怒られるだろうから、黙っていてくださいね。オスカーにはね、姪っ子さんがいたんです。当時は今のあなたと同じくらいか、少し下くらいの年だったかなあ。その子がね、たまたまこの店に遊びに来たとき、ひとりの男がいたんです。元殺し屋のガンマンで。殺し屋からは足を洗って、当時はボディガードをしていました。ま、次元さんのような雰囲気で、クールな一匹狼のような男でしたよ。一目惚れだったみたいです、姪っ子さんのほうが、ね。男のほうは、表面上は無関心でした。でも、姪っ子さんが食事に誘うと、断ることはしなかったようで   何度か会っていたみたいです。オスカーは止めましたよ。今のあなたに対してと同じように、『住む世界が違うのだから』、と。でも、姪っ子さんは、オスカーの忠告を聞かなかった。男を追いかけ続けた。そして   男を狙う殺し屋に撃たれて   亡くなりました」

 そんな。そう口にしたつもりだったけれど、言葉が喉に張りついてしまって、出なかった。

「オスカーはけっして表には出しませんが、姪っ子さんのことを悔いているんだと思います。もっと真剣に止めれば良かった、って。だから、あなたにたいして容赦なかったんでしょうね。同じ道を進みかけているあなたに。オスカーにはそんなつもりはなかったかもしれませんが、熱がこもってましたよ、珍しく」

 そう、だったんだ……。

「それで……その男の人は……どうしたんですか?」
「さあ。さすがにこの店には顔は見せませんね、オスカーの手前。オスカーの忠告は彼の耳にも入っていたはずですが、彼も姪っ子さんと会うのを止めなかった。哀しんでいたのかいないのか……一緒にいるうちに、多少の情は移ったと思うのですが   だから何度か会っていたのだろうし   でも今は、忘れているんじゃないでしょうか。いちいち人の死で嘆いていたら、裏の世界ではやっていけませんからね」

 オスカーさんは、姪御さんのことを忘れてないからこそ、私の行為に腹が立ったのだろう。私も、“住む世界の違う人”……ルパンを追いかけて   、撃たれた。でも、私は助かった。それなのに、またルパンと関わろうとしている。

   たぶん、ルパンや次元さんも、そうだと思いますよ」

 私はマルコさんの目を見た。眼鏡の奥の、澄んだ瞳。でも、揺らぐことのない強い瞳。長い睫毛。

「あの人たちも、相当な数の死地を踏んできていると思いますから、近しい人が亡くなったこともあるでしょう。でも、その哀しみや後悔を引きずらずに、乗り越えてきている。だから   冷たいことを言うようですが、彼らもあなたのことは忘れてしまうと思います。存在は覚えているかもしれませんが、失った悲しみは、明日に持ち越さない。酷なようですが、あなたばかりが彼らを引きずっていても、彼らは忘れてしまう。だからあなたも、綺麗さっぱり、忘れるのが良いと思います」

「そう、ですよね……」

 ほんとうに、マルコさんの言う通りだと思う。ルパンと私なんて、たったニ年で何度か会った程度の付き合いだもの。ちょっと食事をしたり……ダンスをしたり……キスもしたり……でも、それは作戦の一環で……。特に女好きで、世界を飛び回るルパンなら、たくさんの女性と会っているはず。私はその中のひとりにしか、過ぎない。私が撃たれて心配してくれたのも、女性に優しいルパンなら、当然のことなんだ。
 わかっている。わかってはいるのだけど、……。
 オスカーさんもマルコさんも、私のためを思って忠告してくれている。こんな見ず知らずの他人の身を案じてくれるなんて、ありがたい。それに、ふたりが言うことはもっともなこと。ルパンたちのことは、忘れたほうがいい。住む世界が違うのだから。想っても叶うことなんてないのだから。
 でも、そうやって離れようとしても、できなかったんです。何度も、何度も何度も。
 その言葉が喉元まで出かかったけれど、呑み込んだ。そんなことをマルコさんに訴えたって、仕方ない。

 私は息を吸い、吐く。胸がずきずきと傷んだ。撃たれた傷以上に、今は心が、痛い。

 今回はいいきっかけなんだ。ルパンのなかの記憶から去り、私のなかの想いを消すには。一度、“死ぬ”。
 父さんのコレクションを取り戻すのは最後にしようとしていたし、父さんが狙われた真相も犯人もわかった。ルカの生死は気になるところだけれど、あんなに派手な事件があったのだから、ベルトリーニの名には傷がつく。下手をすると、ブランド存続も危ういと思う。父さんの件は、もう折り合いをつけるときなのかもしれない。
 それに、ルパンへの想いも。たくさん傷ついて、悩んで、不安になって。それと同じくらい   ううん、それ以上にたくさん素晴らしい想い出も作れた。もう充分。もう大丈夫。そろそろ自分の足で、自分の世界を歩いていける。
 きっと大丈夫。
 何もかもリセットして、新しい土地や戸籍で生きて行くなんて前途多難だけれど。いまに私のはちょうどいいかもしれない。ぜんぶ、やり直す。

 父さんのことも。ルパンたちのことも、清算する。それが、いまなんだ。
 私はしばらく沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。

「マルコさん   決めました。オスカーさんを呼んで来てくださいますか?」

 

top | back | next
(15.9.24)