Ⅸ. イエローイングレー ... 4



 それからふた月弱。私の身体は順調に回復していった。はじめは流動食しか食べられなかったのが、きちんと固形物を食べられるようになったときはとても嬉しかった。こってりした肉やアルコールなどまだ受けつけないものもあるけれど、食べものがこんなに美味しいと思えるだなんて、感動した。
 また、身体も問題なく動かせるようになった。ふらつかずに歩けるようになった。風を感じながら外を歩けるようになった。太陽の光の温かさを感じながら。季節は春から夏に移り変わりつつあった。胸に穴が開いてもちゃんと塞がるんだなあ、という、人間の身体の神秘も実感した。当たり前のことへの感謝の気持ちで満たされていた。
 生きていて、良かった。
 自然に笑えるようになったし、冗談も言えるようになった。
 オスカーさんは相変わらず愛想が良いとは言えなかったけれど、医師として腕は良く、私の身体への気遣いを怠らなかった。マルコさんは変わらず穏やかで優しかった。
 もう大丈夫。私はすっかり新しい人生を歩みはじめていた。

 でも。ふとしたときに、胸にさっと翳りが差すのを止めることはできなかった。マルコさんに言われたとおり、そういうときは感情を押し殺したりせずに、ただじっと過ぎ去っていくのを待った。仕方ないよ、仕方ない。そう自分に言い聞かせながら。
 たとえば、朝起きたとき、夜寝るとき。シャワーを浴びているとき。そういう日常のちょっとした空白に、寂しさのような、悲しさのような、後悔のようなちくりとした痛みがやってくる。ラジオで『Over the radinbow』がかかっていたときは、心がぎゅっと締めつけられた。あの曲を弾いたときの私に、嫉妬した。
 同じくラジオから“ルパン”の名前を聞いたときも、辛かった。ルパンが、ワシントンの博物館でアレキサンドライトを盗んだとか。心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走ったけれど、そのあとは冷静になれた。きっと誰か女の人のために盗んだんだろうな   不二子さんかな。
 そう。ルパンの時間は動いている。きっと、私のことは忘れて。

 こうした予想外の痛みの波を除けば、私は前を向けていた、と思う。
 私って、なかなか強いじゃない、と誉めるようにした。。もっとへこたれると想像していたけれど、大丈夫。大丈夫。
 これからの未来も思い描けつつあった。オスカーさん曰く、なるべく今までの職業とは関連のない仕事に就いたほうがいいとのこと。そして、今まで行ったことのない土地で生活しろ、ということだった。
 そういうことであれば、美術関連の仕事はだめだし、イタリア、日本、ニューヨーク、イギリスは生活地としてふさわしくない。どこに行こうかまだ決めかねていたけれど、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポール、香港あたり、にしようか。英語圏が良いな、と思っていた。新しい言葉を覚えるのは、なかなか大変だから。
 それと、職業としてひとつ思いついたのが、“考古学者”。美術関連から完全に遠のいたとはいいにくいけれど、ずっと夢だったことだし、そこに、打ち込めるものがいい、と思った。

 大丈夫。私は生きている。前に進める。
 もう、父さんとおじいちゃんが死んでしまったときのような、灰色の世界じゃない   
 大丈夫。私の世界に、色はある。

 

 動き回っても身体が苦にならなくなってきたころ、私はふと思いついて、オスカーさんに訊ねた。私の墓を見に行ってもいいかと。

「あのなあ。あまり歩き回るなと言ってるだろうに。ただでさえ、このあたりをうろうろしているのを黙認してやってるんだぞ」
「でも……まさか自分の墓参りをしてるなんて、誰も思わないでしょう? 気持ちに区切りをつけるためにも、見ておきたいんです。だめですか?」

 私が手を合わせると、オスカーさんはしばらく考えてから「仕方ない」と言ってくれた。

「あ、じゃあ僕が送って行きますよ。ちょうどきりがいいところですし」

 なにやら銃を分解していたマルコさんが、顔を上げた。

「きりがいいようには見えんが」
「いいんです。風に当たりたいなあって、ちょうど思ってたんです」

 オスカーさんの反論を言いくるめて、マルコさんは素早い動作で車のキーを取る。
 マルコさんに促されるまま、走り込まれていそうなドイツ車の助手席に乗った。道中、マルコさんが周辺の地理について説明してくれた。このあたりはイタリアとの国境が近く、山や森に囲まれていて、国立公園もあるのだとか。それじゃあ冬は寒いのかな、と訊ねようとしていたところで、ラジオに釘付けになってしまった。

『昨夜、バルセロナの美術館にルパン三世が現れました。ルパンはアントニオ・ガウディが作った家具一式を盗み、現在も逃亡中です。インターポールが行方を追っています。ガウディ作の家具はスペイン王室へと宝蔵される予定だった品で   

 オスカーさんもマルコさんも、フランス語と英語の両方に堪能だったけれど、このときはフランス語がほとんどわからない私に合わせて、英語のラジオをかけていてくれた。だから、ラジオの言葉は私にも理解できた。理解できて、しまった。
 マルコさんも私も沈黙してしまう。ややあって、マルコさんが口を開いた。

「ガウディが家具なんて作っていたんですねぇ」
「……ええ。色々デザインしていたみたいですね。建築物に合う家具をデザインしたこともあれば、家具から建築のヒントを得たこともあったとか」
「詳しいですね」
「父が美術商をしていて。私も美術品の類が好きだったので」

 へえ、と感心したような声を出すマルコさん。私は少し迷ってから、呟くように訊ねた。

「大丈夫……でしょうか」
「何がです?」
「スペインって、フランスの隣じゃないですか」

 マルコさんはああ、と私の言葉の意味を理解したように頷いた。

「隣と言っても、気軽に来られるような距離じゃないですよ。それに、彼らは先週はドイツにいたようですし、フランスは飛び越えて行っているのでは?」

 そういうことを知っているなんて、マルコさんも彼らの行方に気を配っているのかな。
    私は何を期待していたんだろう。マルコさんの言葉を聞いて、ほんの一握りだけ、残念だと思う気持ちを隠せなかった。偶然の再会を望んでいるとでも言うのだろうか。彼らのなかで、私はもう死んでいるというのに。

「そうですか。それなら安心ですね」

 平然と言う私を、マルコさんは横目でちらりと見たけれど、何も言わなかった。
 オスカーさんたちの店からは、車で十五分弱くらい走ったと思う。森のなかにひっそりと佇む小さな教会と、小ぢんまりした墓地があった。夏を迎えようとしているこの季節、まだ空は青く、太陽は高い位置にあるけれど、陽がゆっくりと傾きつつあった。昼間は熱気があった日差しも収まり、涼しげな風が墓石の間を通り抜ける。
 墓石は、ほとんど同じ形状をしていた。横の長さは私の肩幅程度。高さは膝くらい。厚さは十センチ程度だろうか。灰色の石だった。右脇には、花が活けられる壷のようなものが備えつけてある。

「ええと、どこだっけな」

 マルコさんは、きょろきょろと辺りを見回し、私を先導する。私は念のため、少し大きめの野球帽をかぶっていた。
 やがて、マルコさんはひとつの墓石の前で立ち止まった。

「あ、ここです」

 マルコさんの後に続き、私もその墓の前に立つ。
 『』。私の名前がローマ字で刻んである。そして、誕生日と、先日私が“死ぬこと”を決めた日の日付が彫られていた。
 私、ほんとうに、死んだんだ。
 不思議な気持ちが湧いてくる。悲しみでも痛みでも後悔でもない。マイナスの感情でもプラスの感情でもない、奇妙な心地。自分の名前が刻まれた墓石をこうやって眺めているなんて。

 オスカーさんは私に新しい戸籍を用意してくれた。オーストラリアの孤児として育った日系人で、養子に引き取られた後、両親が事故死したという設定だった。新しい名前も用意してもらったけれど、うまく馴染めずにいた。名前を捨てたことの苦しみが重かった。父さんからもらった『』という名前。私が私であったことの証、……。
 そんな私に、ミドルネームとして『』という名前を残したらどうか、とマルコさんが提案してくれた。ただし、当然のことながら戸籍には記さない、非公式のミドルネーム。自分のなかの名前として。
 そうか。これで、今まで私が生きてきた証になる。私だけのミドルネームとして、抱えて生きていけばいい。
 顔を整形することも結局踏み切れないでいる私は、オスカーさんに覚悟が足りんだとか散々言われたけれど、マルコさんは仕方ないですよ、とかばってくれた。
 生まれもったもの   名前や顔を捨て去るなんて、相当な覚悟がないとできない。私はまだ、完全に生まれ変われていないのかもしれない。こうしてお墓に来ることで、生まれ変われるような気がして来たけれど、……。

 ふと、私の墓石の隣に、花が活けられていることに気がついた。

「あ、マルコさんが活けてくださったんですか?」
「いえ……僕じゃありません」

 マルコさんは怪訝そうな顔をして、首を横に振る。

「それじゃあ、ここの牧師さん? まさか、オスカーさんはないだろうし……」
「いえ、ここの牧師は花を活けるなんて粋なことしないだろうし……仰るとおり、オスカーは間違いなく違うだろうし」

 私は膝を折り、近くで花を見た。
 ひまわりの花束だった。小さな花たちが風に揺れている。
    ひまわり。私は震える手を伸ばし、花束を石壷からそっと抜き出した。

「おや、ひまわりですか。珍しいですね。菊なんかはよく見ますが。あとは、故人の好きな花を活けるケースもありますけど」

 故人の好きな花。私がひまわりの花を好きだと知っている人なんて、   
 その可能性を思い立ったとき、私は震えた。
 ひとりだけ、いる。唐突にひとつの記憶がフラッシュバックされる。

『ひまわり……か。いいね。私、花の中で一番好きだな』
『ふーん。珍しいな』

 春の夜。フィレンツェの郊外を走る車のなかで、交わした言葉。

 まさか   まさか、……ルパン、なの?
 突然やってきた苦しみに、私は胸を押さえた。息が苦しい。
 ルパンが   ここにひまわりを供えてくれたの? スペインに行く途中に……?
 まだ鮮やかに咲き誇るその花は、供えられてからそれほど経っていないようだった。
 黄色い可愛らしい花が、私の目には眩しい。だからだと思う。視界が歪んだ。頬を涙が伝う感覚がする。止められなかった。マルコさんが心配そうに私の顔を見る。マルコさんの視線も顧みず、私は泣いてしまった。

 だって、こんなの、ずるい。
 どうして私の好きな花を覚えていてくれたの? どうしてその花をここに供えてくれたの?
 ずるいよ。私が必死で忘れようとしているときに、いつも。いつもルパンは、私の隙間に飛び込んでくる。
    でも、今度は、本当に捨てなきゃならない。前を向いて歩いて行くために。
 私の涙は止まることなく、黄色い花の上に滴り落ちた。ぜんぶ、流してしまえばいい。
 ここに、私の墓に。ルパンへの想いを、ぜんぶ。伝えられなかった想いを。

 さようなら。
 ありがとう。
 大好きだったよ、ルパン。

 

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(15.9.26)