四章:Blues in March...37






 ルパンの声を聞いて、たまらずに私もカウンターから顔を出す。男がふたり、床に倒れていた。ぴくりとも動く気配がない。思わず小さく悲鳴を上げて、身体を仰け反らせる。まさか、ルパンが撃ったの……?でも、なぜ。
 視線をリビングの奥へと向けると、ルパンの背中が見えた。その腕の中には   蒼白なエミリオさん。ぐったりとしたその姿に、頭が真っ白になった。
 うそ。エミリオさん、……?

「おい、じいさん!」

 ルパンの悲痛な声に、我に返る。駆け出そうとしたけれど、足元がもつれ、転ぶ。膝を打った。けれども、そんなことは全く気にも留めなかった。痛みも感じなかった。カウンターに手をついて立ち上がり、エミリオさんのもとに駆け寄る。エミリオさんは両腕をだらりと垂らし、目を閉ざしていた。
 まさか。まさか、まさか   。開いた唇が、震えた。エミリオ、さん。そう口にしたにつもりが、声が出なかった。

「じいさん」

 ルパンが静かに呼びかける。少し間があってから、エミリオさんの口から「ううっ」といううめき声が洩れた。私は少しばかり胸を撫で下ろす。
 エミリオさんは、ソファではなく床に倒れていたようだった。ルパンは、片膝を床についてエミリオさんの身体を抱えている。それに、床に血溜まりがあった。エミリオさんの身体に傷はないから、おそらく、吐血した、のだと思う。撃たれたわけではないようだった、けれども、エミリオさんの髪は乱れ、真っ青な顔には汚れがあった。波打った横線と泥。靴跡だ、とすぐに見分けがついた。どうして顔に靴跡なんかがあるんだろう。まさか、男たちがエミリオさんに乱暴した   
 かっと頭に血が上る。吐き気がした。当の男たちに横目を向けると、彼らはうつ伏せに倒れ、動かない。でも、そういえば、血は流れていない。撃たれたわけではないのか。

「ル……パン……」

 エミリオさんが、絞り出すように言った。男たちからエミリオさんに視線を移すと、薄目を開けようとしているところだった。
 良かった。エミリオさん、意識が戻った、……。

「心配すんな。じいさまの遺産は守ったよ」

 ルパンが明るく優しい声で言う。エミリオさんの目元が緩んだように見えた。

「あんな連中には渡さねえよ。心配すんな」
「そ……うか……これからは……おまえが……守って、くれ」
「なぁに言ってんだ。俺様は忙しいんだ、じいさんが面倒看てくれよ」
「私はもう……だめさ……」
「んな弱気でどうする」
「ルパン……さいごに……おまえに……会えて、よかった……おじょう、さん……ありが……とう」

 エミリオさんは、横目をわずかに私に向ける。私は、立ち尽くしたまま、首を横に振ることしかできなかった。

「じいさん、しっかりしろ。すぐ医者を呼んでやっから」
「お……まえ……いい、かげん…………たい、せつに……」

 エミリオさんは、何かを伝えようと口を動かそうとするのだけど、その声は途切れ途切れになっていった。
 
「エミリオ」

 ルパンが、繋ぎ止めるように、必死にエミリオさんの名前を呼ぶ。けれども、エミリオさんはゆっくりと目を閉ざし   そのままがくり、と頭を垂れた。
 ルパンは、何かをぐっとこらえるように、固く目を閉じる。エミリオさんの肩をしっかりと抱いたまま。
 私は。私は、何もできなかった。何も考えられなかった。こんなの嘘だ。その言葉が、頭を埋め尽くした。こんなのうそ。胸が震えた。あまりの痛みに、手で胸をぎゅうっと押さえる。喉が詰まった。まぶたがひりひりと沁みた。背筋がざわざわと落ち着かなかった。

 こんなのいやだ。エミリオさん。まだ話したいことがあったのに。聞かせてほしいことがたくさんあったのに。こんな。こんなのって。どうして……どうして、エミリオさんが……。
 胸が熱い。苦しい。途方もない喪失感に、呼吸ができない。

 そのとき。すっと背後に気配を感じたかと思うと、後ろから腕が伸びてきて、首元を締められた。

「動くな!」

 頭上で声が聞こえた。何が起こったのか、すぐに把握できなかった。首を絞め上げられるような苦しみを感じていたから、それが現実になったのかと錯覚した。けれど、そうではなく、実際に首を絞められている。こめかみに固いものが押しつけられた。銃、だった。
 ルパンが顔を上げてこちらを見る。その後、ちらりと横目を動かした。私もその視線を目だけで追うと、ふたり倒れていたはずのうちの男ひとりが消えていた。いつの間にか起き上がっていたようだった。やっぱり、死んでいたわけではなかったんだ。
 耳元で荒い呼吸が聞こえる。男の体温が伝わってくる。動けない。後ろから羽交い絞めにされて、頭に銃を突きつけられているというのに、私は怖いとは思わなかった。それまで感じていた深い悲しみを急に取り上げられて、感情の行き場がわからなくなってしまったような。どこか遠くからこの状況を眺めているような、そんな心地だった。
 ルパンは、厳しい目つきで私の背後の男を睨みつけた。今までに見たことのないルパンの表情   すうっと冷え切っている。いつもの明るい顔からは想像がつかなかった。
 ルパンは、抱えていたエミリオさんをそっと床に下ろすと、立ち上がった。

「動くんじゃねぇ!」

 男の熱い吐息が耳にかかる。こめかみに当てられた銃が、カタカタと震えていた。

   撃ち損じちまった、か」

 ルパンは小さなため息とともに吐き出す。目を細めて、続けた。

「でも、麻酔の影響は多少あるみたいだな?」

 麻酔。そうか、だから男たちは血を流していなかったんだ。けれど、当たりどころが悪かったのか、その効き目が切れてしまった   。でも、ルパンの言う通り、完全には麻酔が抜け切れていないようだった。男の手元はおぼつかず、小刻みに震えている。食いしばるような、荒い鼻息も聞こえてきた。

「うるせェ!銃くらいは使える!大人しくドンのところに案内してもらおうか!」
「そいつを離せ」

 男の威嚇に全く動じず、ルパンは低く言う。ルパンの、ぞっとするほど静かな怒りが伝わってくる。直接ではないにしろ、こいつらのせいでエミリオさんが死んでしまったのは明らかだ。こいつらの来訪や乱暴な扱いで、エミリオさんの病状が悪化した。
 こいつらさえいなければ。私も、憎々しい気持ちがこみ上げてくる。こいつらさえいなければ、エミリオさんは。

「るせェ!てめえが命令できる立場じゃねえだろうが!胸ん中しまってある銃を捨てろ!」

 ルパンは男をじっと睨みつけたまま動かない。男のほうが追い詰められているように思えた。
    私は。ますます頭の中が冴え冴えとしてくるのを感じていた。不思議と、さほど恐怖は感じない。私の視界には、ぐったりと横たわったエミリオさんの姿があった。
 エミリオさんを失った悲しみ。そして、こいつらさえ来なければという怒りが、恐怖より勝っていた。

 こいつの言う通りに、大人しくマルカーノの元まで連れていくわけにはいかない。そんなこと絶対にいやだ。こいつらの言いなりになるなんて。でも、ルパンは私のせいで動けない。どうしようか   
 冷めた私の脳裏に、ひとつの考えが浮かんできた。私は、かつてのベルトリーニの一件で、自分の無力さを痛感していた。何度も危ない状況に陥って、そのたびにルパンに助けてもらって。挙句の果てに、撃たれて、人に命を救われた。少しでも強くなりたい、ルパンたちに近づきたいという思いで、シドニーで護身術を習っていた。本当は、より実践的なもの   柔道や格闘技を習いたかったのだけど、運動神経に自信がない私には無理で。せめて、ちょっとした護身術くらいはと思って、講習に通っていた。そこで学んだのは、暴漢などに襲われたときに女性でもできる防衛術、というもの。その中には、後ろから抱きすくめられたらどうするか、という対処法があったのを思い出した。
 この前、次元に恨みをもつ男に捕まったときには役に立たなかったけれど。この男は、麻酔のせいか挙動に精彩を欠いているようだし、目の前のルパンに捕らわれている。私にまで気は回っていない。きっとうまくいく。根拠のない確信だった。深いところまでは、考えられなかった。頭の中が痺れていて、感情の波が正常に働いていないような、そんな心地。
 私は、大きく両腕を振り回すように上げた。男の手が私から離れる。男は完全に不意打ちを喰らったようすで、目を丸くしていた。さらに私は、その男の足を思い切り踏みつける。

「っ   !」

 ピンヒールだったらより効果的なのだけど、ヒールのない革のブーツでも、それなりの効果はあったようだった。男は痛みに悶絶し、私から身体を離す。その隙に、ルパンが私の腕を掴み、引き寄せると同時に、銃を撃った。弾は胸部に命中し、男は膝から崩れるように倒れこむ。血は流していなかった。たぶん、また麻酔銃なのだと思う。

「馬鹿野郎!」

 ルパンが私の腕を掴んだまま、思い切り怒鳴る。しんと静まりかえっていた私の頭の中が、震えた。

「無茶しやがって!麻酔が残ってたから何とかなってたようなもんだぞ!一歩間違ってたら   

 ルパン   
 不意に、目頭が熱くなって、視界のルパンが少し霞んだ。ルパンは言葉を止める。私の腕を離し、視線を下げた。
 私もルパンから目をそらし、顔を伏せた。まぶたがじんじんと熱くなってくる。胸の奥からこみ上げてくるものに、涙が滲んだ。
 ルパンに怒られたせい、ではなくて   ルパンの声に、体温に、言葉に、いろんなものが緩んだようになった。緊張の糸も、怒りも、やるせなさも。後に残ったのは、深い深い悲しみだった。

   こいつらを縛り上げっから、ロープを持ってきてくれ。二階の物置にあるはずだ」

 ルパンは声のトーンを抑えて、言った。

「うん……」

 私は短く答えて、ルパンから背をそむけるようにリビングを後にした。そのとたんに、涙があふれ出してくる。泣いている暇はない。固く目を閉じ、涙の退路を断って、階上へと向かった。

 

(17.1.20)