六章:Presto Transition...50
私はしばらくの間、次元から視線を外してシドニーの夜の街を眺めていた。次元と顔を合わせていたら、彼を責める言葉を言ってしまうかもしれない。もしくは、泣き言の一つや二つ、吐いてしまうかもしれない。
アレキサンダーの件から手を引くことになる
でも、それならどうして次元は私に会いに来てくれたんだろう?ルパンが先生のところへ行ったのなら、それで充分ではないだろうか。この件の責任者は先生なのだし。
もしかすると、次元の、……あるいはルパンの優しさなのかな、と思った。裏の事情をきちんと話して、私が納得できるようにしてくれたのかな。
「
「ん?」
次に次元と会えるのはいつかわからない。もしかすると、最後になってしまうかもしれない、……。だから、思ったことは言ってしまおう、気になることは聞いてしまおう、と思った。
「先生に忠告すれば、それで充分だったんじゃない?」
「ああ、まあ、そうかもしれないな。でもな、上司に“この件からは手を引け”と一方的に言われたところで、おまえら学生連中は納得するか?そういうときに、おまえが事情を知っていれば、周りを説得できるだろ」
「ふうん……」
そういうことか。でも、まあ、これも私を気遣ってくれたということなのかな。
「それはどうもありがとう」
「……やっぱりおまえ、納得してないな?」
「そんなことないよ。だって、どうしようもないでしょう?」
「まあ、そうだな」
そう、どうしようもない。もう手を引くしかない。アレキサンダーの研究から。私の卒業テーマから、……。
あとは、せめて、次元たちがアレキサンダーの遺産を無事に手に入れてくれることを願うしかない。
私が沈黙していると、次元は何本目かわからない煙草を吸いはじめた。
「悪かったな」
「べつに、次元のせいじゃ、」
「ルパンじゃなくて」
「え、……」
どういう、意味?
「いつもなら、こういう役目はあいつのもんだろ」
そうだと思った。昔だったら、ルパンが説明をしに来てくれたかもしれない。でも、……。
「ルパンに会いたかったか?」
次元はさらりと訊いた。喉のあたりがぐっと詰まる。ルパンに会いたかったか。次元の口からは聞きたくない言葉だった。
次元がこういう訊き方をするということは、次元は知らないのだろうか。
「
「ああ。あいつは教授のところに行くから、俺はのところへ行け、としか言われなかったな」
そう、なんだ。ルパンは、次元に何も語らないまま私への用事を押しつけたんだ。なんだか腹立たしい。あんな別れ方をしたのだから、用事があっても私に会いに来られないのはわかるけれど、次元に何も事情を話さないままだったなんて。どういうつもりなんだろう?
「そっか……聞いてないんだ。あのね、私、
次元の顔は見ずに、何も考えずに、事実だけをさらりと言うようにした。
次元は何も言わなかった。いっそ苦笑の一つでも返してほしかった。そうじゃないと、忘れていた痛みが、どんどん広がっていく。
「もう関わるなって言われた。それに、……世界中の女の人が俺を放っておかないから、だって」
そこでようやく次元がふん、と鼻を鳴らす。
「あんな男のことなんて、早く忘れちまったほうがおまえのためだろ」
そういえば、ルパンを好きにならないほうがいいと、次元は最初から言っていたっけ。結局こういうことになった私を、次元は馬鹿だと思っているだろうか。
「それに……おまえには、ちゃんとしたナイト役の男がいるんだろ?」
ナイト役。マッシュの、こと?
「女は追いかけられてるほうが幸せなもんだぞ」
「なに、それ」
私は吹き出してしまう。次元がそんなことを言うなんて。
「真面目に言ってるんだ、笑うな」
「だって、次元がそういうことを言うとは思わなくて」
「悪かったな」
次元もふっ、と笑った。
「
「ま……ね。はじめから、どこか覚悟してたのかも」
私は笑う。
せめて。私は元気そうだったと次元に伝えてもらえれば、小さな“復讐”になるだろうか?
「覚悟してた?何を、だ?」
「
私は微笑んだまま言った。言ったつもりだった。うまく微笑えているのかな。
次元が少し驚いたように顔を伏せるのが横目に見えた。
「そうだとわかっていて、どうして……あいつに惚れた?」
どうして?どうして、なんだろう。
「うーん、うまく言葉にできそうにないな」
「あいつは女には優しい。それが気持ち良かっただけなんじゃないのか?」
次元、なかなか辛辣だなあ。私は苦笑しながら、頷いた。最後かもしれないから、次元にはありのままを告げてしまおうと思った。
「そうかもしれない。優しかったからかもしれない。でも、私は、……厳しいところも、笑った顔も、真剣な顔も、一緒にいるとすごく楽しいところも、……」
声も、仕草も、表情も。ルパンの全部が、好きだった。
胸がずきずきする。何が悲しくて振られた人への想いを思い出さなきゃいけないんだろう。
これ以上続けるのは心がもたないと思って、口を閉ざした。次元は黙って私の言葉を待っている。何か言わなきゃ
「ねえ、次元、覚えてる?最初に会ったころ、“あいつに惚れると苦労する”って私に言ったの」
「んー……あー……そんなこと言ったか?」
次元は歯切れ悪く答える。たしか、あのときもこんな夜のドライブだった。懐かしい。
「言った。私は、覚えてるよ。その忠告はずっと頭にあったし、私自身も苦労するだろうなっていうことはわかってた。なのに
ルパンへの気持ちが溢れてきて、苦しかった。身体中がずきずきと痛みだす。次元のせいだ。次元が突然現れて、ルパンのことを話に出すから。
涙が滲みかけたとき、今の状況をふっと俯瞰して見てしまった。私、よりにもよって、ルパンに一番近い人に何を語っているんだろう。次元の顔を見られない。言ってしまってから、なんて恥ずかしいことをしゃべってしまったのだろうと心から後悔した。しかも、これじゃあ、今でも私がルパンのことを好きと言っているみたいじゃない。
次元の反応が怖くて、私は慌てて言った。
「い、今の、忘れて。やっぱり、好きになんてならないと思う。同じ過ちは繰り返さないようにする」
「過ち、ね」
次元におうむ返しにされて、“違う”と感じた。
「ううん……過ちなんかじゃない……」
ルパンを好きになったことは、一番の幸せだったと、思う。灰色だった私の世界を、ルパンはカラフルに染めてくれた。
ああ、もう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。せっかく押し込めていたものがどんどん溢れてきてしまう。
「あ、あのね、これじゃあ私、ルパンのことをずるずる引きずってるみたいだけど、そうじゃないからね。ちゃんと吹っ切れてるから」
「へえ?なら次の男を見つけたってわけだ」
「そうじゃないけど……そんな、ルパンみたいに切り替えが早くないよ」
「切り替えが早い?」
「だって、振られてもすぐに次の女の人にに向かっていくでしょう?不二子さんに冷たくされてもめげないし」
「……ま、そうだな」
次元は低く言いながら、ふっと笑う。何かを思い出しているのかもしれない。けれども、少し考えたようすを見せてから、「でもな」と切り出した。
「
「ええっ?言いかけてやめないでよ。気になる」
「なんでもない。あいつのことなんて理解したくもないしな」
なんだろう。はっきり言ってほしい。
もう少し追求してみようとしたところで、次元は車を停めた。私の追い打ちから逃れるために停車させたのだと思ったけれど、違った。
「おまえの家、この近くだろう?」
たしかに、見渡すといつもの風景があった。この通りをまっすぐ行けば、私のアパートだった。
「次元、私のアパートの場所、知ってたっけ」
「ああ。ルパンに聞いた」
次元は私のアパートの住所を暗唱してみせる。
「……そっか」
ルパン、本当に私に会いたくないんだな。
次元はもう車を動かすつもりはないようで、ハンドルから手を離し、煙草に火をつけた。口を開きそうなようすもない。私には、選択肢がなかった。
車のドアを開け、次元に向かって告げる。
「ありがとう……送ってくれて」
次元はああ、と短く返事をする。それだけなのかと思ったけれど、少し時間を置いてから、次元は口を開いた。
「ルパンのやつが」
「うん?」
「もう俺たちに関わらないほうがいいと言ったのは、おまえの身を案じてのことだろ。だから、これからはちゃんと男に送られるんだな」
「うん……」
次元も、私は関わらないほうがいいと思っているのだろう。次元に会うのも、本当にこれが最後になる。もう会えないかもしれないと思っていた次元に出会えて良かった反面、また会いたい、もっと一緒に過ごしたいという欲が育ってきてしまった。目頭がずきずきと痛む。次元のせいで、ルパンの雰囲気を思い出してしまった。ふたりのまとう空気は、似ている。さすがに“相棒”というだけはあるな、と思う。
これ以上別れを先延ばしにしても余計に離れがたくなるだけ。最後の言葉を告げないとと思うのに、伝えたいことはたくさんあるはずなのに、胸も頭もいっぱいで言葉にならない。
ぼんやりしたままドアを閉めると、次元は片手をハンドルにかけた。
行ってしまう。
「あ、あの」
声をかけると、次元は振り向いた。何を言おうと決めていなかったのに、呼び止めてしまった。さよなら、ありがとう、元気で。どの言葉も、名残惜しくてかけられない。
「じゃあな。いい男見つけろよ」
次元はそう言い残し、オープンカーを走らせた。黒い車は、あっという間に夜の闇に消えていってしまう。
それでもなお、低いエンジンの音だけは、いつまでも耳の中に残っていた。
(17.5.24)