六章:Presto Transition...51
翌日は、午後から研究室に集まってエジプト行きについて話し合うことになっていた。けれど、先生からメーリングリストに「集まるのは明日にして欲しい」と連絡があった。風邪をひいて熱がある、と書いてある。でもたぶん、嘘、なのだと思う。
それから少し経って、研究室のメンバーの一人が「先生抜きで集まろうか?」と返信してきた。でも、「先生がいないのなら、最終決定はできないし、明日にしよう」と私が提案すると、最終的には「そうしよう」と同意してくれた。既に浮足立って荷造りをはじめているメンバーもいる中、エジプト行きが中止になったらがっかりする人もいると思う。それならば、傷は少しでも浅いほうがいい。なるべくエジプト行きのことは話し合わないほうがいい。
先生は今、どういう思いでいるんだろう。先生に相談したかった。
本当に
何をしても手につかなかった。この件でごちゃごちゃ考えてしまって、気がついたらお湯を二回も沸かしていた。
先生のこと、次元の言葉、ミラー氏の求めるもの、アレキサンダーの遺産のゆくえ。気がかりなことが多すぎる。思い切って先生に電話してみようか。でも、一体なんて?昨日ルパンと話しましたか、って?
ぼんやりしながらブラックコーヒーをすすっていると、玄関からノックの音が聞こえた。
誰だろう。マリアが遊びに来たのかな、なんて考えながら、「どちらさまですか?」とドアに向かって訊ねる。
「・カーネルさんのお宅ですか?」
返ってきたのは、男性の声。少し堅そうな声音だった。また野菜の宅配の勧誘かなと考えて、身構える。
「どちらさまでしょう?」
あくまで私は名乗らずに、訊ねる。
「突然失礼致します。わたくし、ベルモンド・ホテルのジュディ・ミラーの代理の者です」
ミラー氏の、代理の者。予想もしていなかった返答に、返す言葉が見つからなかった。
「ミラーが、アレキサンダーの件で話があるそうです。わたくしと一緒に来て頂けませんか?」
なんだか、おかしい。先生を通してではなく、ミラー氏が直接、私に会いたがっているだなんて。次元から昨日ミラー氏についての話を聞いたこともあって、警戒心が強まっていった。
「なぜ……私に、なのでしょう?先生ではなくて?もしくは、先生……ブライトン教授を通してではなく、なぜ?」
「昨日の親睦会で、ミラーはあなたをお気に召したようです。もう少し直接話がしたいと、そう聞いております。もちろん、レイモンド氏もお待ちです」
「先生が?先生からは、先ほど風邪をひいて寝込んでいる、とメールをもらいましたが」
ドアの向こうの空気が変わったような気がした。男の荒い息遣いが聞こえるような。男は不穏な沈黙の後、言った。
「ええ。たしかに、レイモンド氏は具合が悪そうでした。早くあなたにもお越しいただいたほうがいいかもしれません」
ぞくり、と鳥肌が立つ。男の言葉は丁寧なのに、底が見えない冷たさを感じた。断るという道はない。もしそうしたら、男はここに押し入ってくるかもしれない。
「わかりました」
私は息を呑み込んだ。コーヒーの味が喉に張りついて、しばらくその苦味が取れなかった。
他の人に連絡する隙を与えないためにか、男はすぐに部屋に入って来た。細身の長身で、切れ長の目つき。真っ黒のスーツに真っ黒のタイを着用している。年齢はわからない。皺のない顔から三十代くらいなのかもしれないと思うし、白髪の混じったブロンドの髪から四十代なのかも、とも思う。青白い顔をしていた。
こういう目、見覚えがある。次元に復讐をするためにやって来た男や、カプリで会ったマフィアたちと同じ目。ミラー氏はこんな男と手を組んでいるというの?
乱暴なことはされなかったけれど、無言の圧力を受けて、私はアパートの外に連れて行かれた。艶のある漆黒の車に押し込まれる。ドイツの高級車だった。中にはサングラスをかけ、同じく黒いスーツをまとった大柄の男性が運転席に座っていた。私と細身の男が乗り込むと、無言で車を発車させる。
外から車内は見えないようになっていたが、中からは外の景色を見ることができた。行き先を隠すつもりはないらしい。
十数分ほどで、シドニーの繁華街にあるタワーホテルにたどり着いた。ベルモンドグループのものではないホテルだった。
「二十七階の2705号室へ行け」
細身の男はそう言って、私に鍵を手渡す。逃げられそうな隙はまったくなかった。私はただ、従うしかなかった。
2705号室のドアをノックし、鍵を開ける。廊下を抜けると、とても広々としたリビングルームに出た。スイートルームのようだった。リビングにはスーツの男が二人おり、彼らに奥へと促される。応接間があるようだった。
扉を開けると、その部屋の中には鮮やかなブルーのパンツスーツを着たミラー氏と、テーブルを挟んでミラー氏と向かい合う先生の姿があった。
先生は私の顔を見るなり目を見開く。
「!?いったい、どうして」
先生はミラー氏に顔を向き直し、彼女を睨みつける。
「ジュディ、きみの差し金か?どういうつもりだ?」
「言ったでしょう、レイモンド。あなたがアレキサンダーの件から外れることは、許されないのよ」
ミラー氏は笑みを浮かべている。昨日の印象よりも、妖艶な雰囲気をたたえて。
「私は外れるとは言っていない。私以外は
「駄目よ。あなた一人では調査が進まないわ。優秀な学生さんたちにも協力してもらわないと」
ミラー氏はねっとりとした視線で私を見る。
「さあ、さん。立ち話もなんですから、こちらへどうぞ」
ミラー氏は私を手招きし、自分のソファの隣に呼んだ。この応接間には黒スーツの男たちはいなかったけれど、ミラー氏に反抗できる空気ではなかった。隣の部屋には、あの屈強な男たちが控えている。私は大人しくミラー氏の隣に座った。先生とは向かい合う格好になる。
「昨日の話を聞いてしまった後では、とてもじゃないが危険かもしれないという場所に他のメンバーを派遣するわけにはいかない」
「そう。あなたに話してしまったのはやっぱり失敗だったわね。目的地
先生は頭を垂らし、こめかみを両手で押さえ込む。
「きみの言葉はどこからどこまでが真実なんだ?」
「私は真実しか語っていないわ」
くすりと笑うミラー氏。先生は顔を上げる。
「どういうつもりだ?を連れてくるなんて」
「あなたがエジプト行きは取りやめるなんて言うから」
「当然だろう。何度も言うが、」
「ねえ、さん。あなたは嫌よね?エジプトへ行きたいでしょう?せっかくここまで調べがついたのに、自分自身の目で真実を見たいわよね?」
私は答えなかった。私が迂闊に口を挟めば、ますます先生にとって不利な状況になるかもしれない。私は黙ってミラー氏を見つめた。
「あら、ずいぶん落ち着いているのね?こんな状況だというのに」
たしかに、昨日次元から色々聞いていたおかげて、少し冷静でいられるのかもしれない。でも、頭の中はごちゃごちゃで、全然考えがまとまらない。ミラー氏はなぜ私を呼んだのか。先生とミラー氏の関係はなんなのか。あの男たちは何者なのか。
でも、私を連れてきた意図なら、想像がついた。私は、人質なんだ。
「うろたえても、状況は変わりませんから」
「ふふ、そう。さん、やっぱりあなたは私が見込んだ人だわ。聡明だし、強い人なのね。あなたにはぜひ、この件を最後まで調べてほしい」
「ジュディ、きみは」
「レイモンド。研究チーム全員のエジプト行きは勘弁してあげる。でも、調査がスムーズに進む程度の人数は同行してもらう。期日まで
ミラー氏の口元には笑みが浮かべられているのに、目の奥には強く揺るがない光が見えた。
「ジュディ」
「人選はあなたに任せるわ。あなたとさん以外の、ね。昨日も話したけれど、目的地は“それなりに”危険な場所だと思う。でもね、私の“ボディガード”を何人か連れて行く。あなたたちのことも守るよう伝えるわ」
ボディガード。あの黒スーツの男たちのことだろうか。
「私はね、なんとしてでもアレキサンダーにまつわる、隠されたものをすべて、明かしたいのよ。ようやく掴んだ大きな手がかりだもの。ここであなたたちに手を引かれては困るの」
ミラー氏の口調には有無を言わせないようすがあった。そして、どこか今の状況を楽しむような節もある。誰かに、似ている
先生が断れば、ミラー氏は私に何かしら危害を加えるつもりなのだろう。
「こんなことまでして。きみの目的はいったい、何だ?復讐なのか?」
「復讐?ふふ、そうね。いろいろな意味で、ね」
(17.6.1)