六章:Presto Transition...52





 ジュディ・ミラーは必要なことをいくつか話しただけで、意外にもあっさりと先生と私を帰した。エジプト行きは二週間後にするということ、この話は私たちの間だけにすること、などを忠告された程度だった。彼女の周りにいた黒スーツの男たちは、結局微動だにしなかった。
 ホテルを後にしたとき、先生はひどく衰弱したようすだった。このまま倒れてしまうのではないかと思ったほど。けれど、先生は「きちんと話をしよう」と言い、落ち着いて話せる場所   私の部屋へ行くことにした。大学の先生の研究室では誰かに聞かれてしまう可能性があったから。
 ホテルからタクシーに乗り、まっすぐ私の部屋へ向かう。タクシーの中では、私たちは必要な会話しかしなかった。先生は傍から見ると本当に具合が悪そうで、運転手は口数が少ない私たちを特に怪しいとは感じなかったと思う。




「まずは、きみに謝らなくては。本当に、すまなかった」

 部屋のソファに先生を案内し、コーヒーを出すと、開口一番、先生は頭を下げた。ソファは一つしかないので、私は先生の隣に座るしかなかったけれど、先生は私の肩に掴みかかりそうな勢いだった。

「先生、そんな、やめてください」
「いや……きみを巻き込んだのは、ひとえに私の弱さが原因だ」

 先生は、ぽつりぽつりと話しはじめる。だいたいが昨日次元から聞いていたことだったけれど、先生の事情は初めて聞くことだった。
 先生とミラーは十年ほど前に出会ったらしい。彼女のほうから接触があったのだとか。当時、先生は父親も母親も重い病気にかかり、その高額な治療費のために借金に苦しんでいた。困っていた先生のもとに現れて、借金の肩代わりをしたのがミラー。
 必ず返すと言った先生に対し、ミラーは「お金のことはいい」と言った。ミラーが先生に求めていたのは、アレキサンダーの調査を今後も続けることと、その成果を逐一自分に報告してほしい、ということだけだった。
 先生にとっては好ましすぎる条件に、何か裏があるのではないか、と思ったらしい。アレキサンダーの遺産ついては、先生自身がもともと勢力を上げて調べていたことだったから。けれど、とにかくお金に苦しんでいたことと、ミラーの亡くなった夫もアレキサンダーのことを調べていたということを知り、先生は提案を受け入れた。むしろ、亡くなった夫の夢を先生に託されたような気さえしていたという。
 それから先生の父母が亡くなり   ミラーのおかげで安らかに逝けたらしい   アレキサンダーのことは進展がないまま月日が流れていった。現在も、ミラーへの借金の返済はまだ残っているらしい。後から知ったことだそうだが、ミラーは父母の治療のために想定よりも多額の資金を払っていたそうだ。
 ミラーは借金のことをちらつかせはしなかったが、何度か先生に無理な注文をした。出したくもない論文を書かされたり、ベルモンドだけが私たちのスポンサーにつくことを要求したり。でも、大きな借りがある先生は、従わざるをえなかった。

 そして、このたび、ようやく大きな手がかりを手に入れることになったわけだけれど。文字を解読して、実地調査に踏み切ることができて   
 先生はミラーにその成果を話し、喜んだミラーは私たちとの親睦会を開くことにした。会が終わった後、先生はミラーから二人で打ち上げをしよう、と持ちかけられる。お酒の力もあってか、ミラーは饒舌だったとか。
 そこからは、次元から聞いたことと同じだった。亡くなったミラーの夫がアレキサンダーの研究をしていたのではなく、研究のためにエジプトに行き、帰らぬ人となった。死因は、紛争に巻き込まれ、流れ弾に当たったこと。首都カイロを発ってから数日後に行方不明になり、さらに日が経った後、カイロ郊外で遺体になった夫が見つかった、という。ミラーは納得できず、いろいろ調べたらしい。
 検死のプロに見てもらったところ、流れ弾に当たったのではなく、“故意に打たれた可能性がある”ということが判明した。そして、他にも犠牲者がいるかもしれないということも浮かび上がってくる。
 これまでも、エジプト内で紛争に巻き込まれて亡くなった学者が数名いたらしい。しかも、いずれもアレキサンダーの遺産について調べていた人ばかりだった。
 もしかして、夫は何か知ってはいけないことを知り、殺されたのだろうか。そう考えたミラーは、それから、何人かの専門家に声をかけ、アレキサンダーの件を調べてもらっているらしい。先生もそのうちの一人だった。けれど、誰も彼も研究からは手を引いていったという。

「ジュディの狙いが何なのかは詳しくは聞けなかったんだ。だが、とにかく、この件に関しては何か裏がありそうだということはわかった。それにくわえて、別の人物からも、この件は危険が伴うので手を引いたほうがいい、と言われてね」

 別の人物。もしかして、ルパン……?

「研究室を解散させるべきか、迷っている。だが、まずはエジプト行きは控えたほうがいいということははっきりと感じた。残念ではあるが、命には代えられない。しかし   今朝、ジュディにその旨を伝えたところ、あんなことになって……。まさかきみを人質に取られるとは思わなかった。ジュディがあんな強硬手段に出るとは」

 先生は眉に力を込め、手元のコーヒーカップを睨みつけるようにしていた。コーヒーは少しも減っていない。

「本当にすまない……きみを巻き込むつもりはなかったんだ。私一人で解決させたかった。ジュディを疑っておくべきだった。金など受け取らねば良かった……。善意で私に近づいてきたなど、そんなうまい話があるわけないのに」

 カップを握りしめる先生の手が震える。本当に心を痛めているようだった。

 エジプト行きは危険が伴う。私たちの目的地は、もしかすると、ミラーの旦那さんや他の学者たちが殺されたかもしれない場所。そして、不二子さんが呼んだ財宝を狙う連中も集まってくるかもしれない。
 でも、私は、先生を恨む気持ちには到底なれなかった。先生は、長い間独りで戦ってきたのだと思う。アレキサンダーの遺産なんて夢物語を追い続けていると揶揄され、かたやミラーへの借金を返すために、彼女の言いなりにならなくてはいけなかった。本当は、大好きなヘレニズム文化を探りたいという純粋な探究心や情熱だけで進んで行きたかったのだと思う。そういう先生のひたむきさや、優しさを、私はよく知っている。

「先生、あの……いいんです」

 先生はゆっくりと顔を上げる。

「私のことは、いいんです。それよりもこれからのことを考えましょう。それに、エジプト行きが絶対に危険と決まったわけでもないですし」

 先生は少し驚いたような顔をした。

、きみは……本当に落ち着いているね。ジュディが言っていたように。怖い男たちに連れてこられたのだろう?大丈夫だったのかい?」
「それは……たしかに怖かったです。でも、先生がとても辛そうだったから。先生が私の分まで取り乱してくれたから」

 私が小さく笑うと、先生も少しだけ口角を上げた。

「先生の力になりたいって思うんです。それが怖さよりも勝っているんだと思います」

 半分は、本当。
 もう半分は、これまで命の危機を何度か経験してきて   撃たれたこともあるし   少し耐性がついたのかな、なんて思う。今までに比べたら、今回は実際に危ない目に遭ったわけではない。エジプト行きは危険“かもしれない”というだけで、本当にミラーの夫が殺されたかの確証もないし、不二子さんたちがこの件に介入してくるとも決まったわけではない。私の中では、まだはっきりとした危機感が育っていなかった。私たちはただ、アレキサンダーの遺産を見つけて、歴史を研究したいだけ。
 それに。

「それに、ミラーさん、手段を選ばないような緊迫感はありましたけど、私たちを殺そうとするような感じには思えなくて」

 イタリアのマフィアや次元を敵とする男は、もっと目が異常だった。殺人者の顔つきだった。

「ああ、そうだね。私もそう感じた。もっとも、私がジュディを信じたいと思ってしまっているからかもしれないが。今までの彼女は、本当に善い女性だったんだ……」

 先生はようやくコーヒーを口につけ、ふう、と長い溜息を吐いた。

「どうして、こんなことになってしまったのか」

 先生は絞り出すように言葉を吐く。
 私も同じように思った。やっと掴んだ手がかり。ようやく手に届くかと思っていたのに。ミラー氏も、不二子さんも、次元もルパンも、もしかすると見えない何かも、アレキサンダーの遺産を狙っている。私たちが一番、唯一“まとも”に遺産を手に入れたいと思っているのに。

「先生」

 呼びかけると、先生は目線を私に向けた。

「アレキサンダー大王の遺したもの、見つけたいです。きちんと世の中に公開したいです」

 こうなったら、次元やルパンの手を借りずに遺産を手に入れたい。正しい歴史をきちんと解き明かしたい。私利私欲のためにまみれてしまうようなことは、あってはならないと思う。

「ああ、そうだ   そうだね」

 先生は、ようやく少し笑ってくれた。

 

(17.6.9)