六章:Presto Transition...53





 翌日、先生はみんなを集めて、全員でのエジプト行きはやめることにしようと伝えた。

「エジプトにいる知人から連絡があってね。今、私たちが行こうとしているシワの近くでは民族紛争が続いていて、大人数で現地に行くのは好ましくないそうだ。申し訳ないが、メンバーを絞らせてもらう」

 先生は丁寧に切り出したけれど、研究室の中はざわざわと揺れる。

「同行者は、 、アーチャー、テリー、そして私だ」

 アーチャーはヘレニズムやエジプト文化に詳しく、趣味で空手をやっている。テリーは元警察官で、昔からの夢だった考古学者の夢を追って大学に入り直した。ふたりとも四十代だけれど、研究室の中でもベテラン、かつ体格もいい。そのふたりに混じって、私。一応この件の発起人という立場ではあるから不自然ではないけれど、みんなこの人選に賛同しているようすではなかった。自分だって行きたかったのに、という空気をひしひしと感じる。
 一方で、アーチャーとテリーには今朝早く伝えてあって、ふたりはどこか得意げだった。

「大丈夫なんですか?そんな、紛争のある土地に行って」

 マッシュが訝しげに先生に訊ねる。

「ああ。現地に詳しいガイドも雇ってあるし、念を入れて少人数で行動するだけだ。残りのメンバーにはここからパソコンで遠隔サポートしてもらう。後から現地に来てもらうことになるかもしれない」

 先生の落ち着いた物言いは、どこにもおかしなようすはなかった。昨日あんなに真っ青な顔をしていた先生。覚悟を決めた、そんな表情だった。
 かえって私のほうがはらはらしてしまう。みんなに強く反対されたらどうするんだろう。怪しまれたらどうするんだろう、と。
 でも、エジプト行きが完全になくなったわけではないと知ったメンバーのみんなは、最終的には先生の提案を受け入れた。

「お土産頼みますよ、先生」
「スフィンクスの置物とか」

 そんな冗談が飛び交うと、先生は声を立てて笑った。
    けれど。現地に待ち受けているものしだいでは、みんなとのコンタクトを一切断つつもりもあると、先生は昨日言っていた。

「テリーとアーチャーは自分の身を守ってもらうとして、きみのことは私が守ろう。。きみのことは、私が必ず無事に帰す」

 先生は帰り際、そう言ってくれた。
 本当は生粋の学者である先生。でも、その目は頼もしく、同時に危うくも見えた。







 エジプトへ出発する日が近づいてきて、私はマリアと食事をすることになった。

「紛争なんて、なんだか不安ね」

 マリアは何度も心配してくれた。私はそのたびに「大丈夫だよ、現地に詳しいガイドさんがいるっていうし」と頷くしかなかった。
 私はいったいいくつの嘘をマリアに並べるんだろう、……。

「気をつけて行ってきてね。無茶はしないでね」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「寂しくなるなぁ、がいなくなると。待ってるからね」

 私の帰りを待ってくれる人がいる。
 なんだかとても、温かいことだと思った。

「うん……」
「行く前にマッシュと仲直りしたほうがいいんじゃない?」
「べつに喧嘩したつもりはないんだけど」

 マッシュとは、少しぎこちない関係が続いていた。気まずいわけではないけれど、以前のように気安い仲ではなくなってしまったと思う。
 私はマッシュとは友だちでいたかった。でも、マッシュのほうが私を避けているような気がした。なんとか少しでもわだかまりを解消していきたかったけれど、その機会はやってこなかった。エジプトやシワについて調べたり、アラビア語を少しでも勉強したり、準備をしたりしているうちに、あっという間に当日になってしまった。


 空港にはすでに先生の姿があった。研究室のみんなとは昨日大学で別れを済ませてきているので、今日集まるのは四人だけ。

「先生、ミラーさんは来るんですか?」
「いや。仕事の都合がつかず、遅れるそうだ」

 あれ以来、私のところにミラーが接触してくることはなかった。先生と、もっとミラーのことについて話したかったけれど、そこに大きなリュックを背負ったマッシュがやって来たので、驚いた。

「マッシュ!どうして?」
「昨日テリーの父上が亡くなったそうでね。急遽、代わってもらったんだ」

 マッシュはにこりと笑う。私は混乱して、先生を見た。先生は少し困った顔をして、頷いた。

「私も今朝聞いたばかりで、驚いたよ」

 先生はあまり納得したようすではなかった。テリーは元警官で、荒事には一番頼れる存在だったけれど、マッシュはいたって普通の男性。アーチャーは空手をやっているとはいえ趣味で、あくまで学者が本業。先生も腕っ節が強そうには見えない。
 かたやミラーのSPは屈強な男たちで、現地に待ち受けるのは何かもわからない。もしかしたら、「泥棒」たちもやって来るかもしれない   
 私たち、大丈夫だろうか。
 心配になったけれど、気心の知れたマッシュが一緒にいるというのは、心強いとも思う。

「僕、現地に行きたいとすごく思ってたんですよ。ジャーナリストの血が騒ぐというか。絶対、アレキサンダーの遺産を見つけましょうね!」

 マッシュがぱちりとウインクする。


 その後アーチャーがやって来て、私たち四人の乗った飛行機はエジプトへ向けて飛んだ。まずはエジプトの首都カイロへ。そこから南西のシワというオアシスの街へ行くことになる。シワを起点に、周辺のカーラや集落を調べていく。
 私は座席に深く持たれながら、目を閉じた。

 精霊の住まう谷、カーラ。何かがあるのだろうか。
 アレキサンダーの遺産。
 ジュディ・ミラーの目的。
 そして   遺産を狙う者たち。
 いろいろなことが、複雑にからみあってしまった。

 飛行機ががたがたと揺れる中、私はシドニーに戻りたい、と強烈に思った。マリアのところに戻りたい。私のアパートに帰りたい。何もかもを投げ出して、自分のベッドの上で眠りたい。
 困っている先生の助けになればという思いと、アレキサンダーの遺産を見つけたいという願いで勇み足でここまでやって来た。けれど、何が待ち受けているのかわからないこの状況が今になってとてつもなく怖い。底が見えない沼にゆっくりと沈んでいくような感覚だった。もう後戻りはできない。飛行機が飛び去った今になって、こんなに恐怖を感じるなんて。

、大丈夫かい?」

 隣の席の先生が、私の顔を覗き込む。
 私がきみを守ると言ってくれた先生。
 そうだ、先生と約束したんだ。アレキサンダーの遺産を見つける、って。

   大丈夫です。飛行機の離陸って苦手で」

 私が苦笑すると、先生も「私もだ」と頷いた。

「無理はしないで、何かあったらすぐに相談するんだ。いいね?」
「はい。ありがとうございます」

 大丈夫。私には、先生がいる。マッシュもいる。マリアも待ってくれている。
 だから、私は、大丈夫   
 

 

(17.6.19)