八章:Alexander the Great...71
目を開けると、うっすらと白んだ空が目に入った。けれどもその視界は狭く、両端が黒い影で覆われている。
頭がぼんやりとして、今の自分の状況が把握できなかった。
ただ、目の周りが熱くて、胸の中に切り裂かれたような痛みを感じた。その痛みには触れないほうがいいと、私の本能が言っていた。何も思い出さないほうがいい、と。
上半身を起こすと、全身がずぶ濡れであることがわかった。視線の先には川が流れている。ここは陸地のようだった。上を見上げると、高い高い崖がそびえている。
空は薄暗かった。少しずつ、色が白みがかってゆく。夜明け前の空なのだと思った。
崖。川。
霧が晴れていくように、しだいにこれまでの状況が蘇ってくる。
その言葉が唐突に頭に浮かんで、私は勢いよく立ち上がった。あたりを見渡すけれど、人の姿はどこにもない。さらさらと、流れが早い川の音だけが耳についた。
ルパンは?
ルパンは、どこ?
心臓が急激に鼓動を速める。
ルパンは……?
私は川の近くまで行って、上流と下流を何度も何度も見回した。
でも、何もない。誰も、いない。
私だけ……打ち上げられてしまった……?
顔から血の気が引いていく。両手が、両足が、ぶるぶると小刻みに震えた。
うそ。嘘でしょ?
私は膝に力が入らず、崩れ落ちるようにして尻もちをついた。右足にずきずきとした痛みが走る。そこに目を落とすと、ズボンの脛の脇あたりが破れ、血が滲んでいた。たぶん通路から逃げていくときに撃たれたもの。でも、かすっているだけ。
ルパンは。
ルパンは
そのときのシーンが頭のなかでリフレインされる。
私をかばうようにして、銃に撃たれたルパン。鋭い銃弾が胸に突き刺さっていくさまが、ありありと思い出されて全身が震えた。
濡れた衣服が身体に張りついて気持ちが悪い。寒い。
けれど、そんなことはどうでもいい。
ルパンが、いない。
ルパンが撃たれた。崖から落ちて、私を落下の衝撃からかばってくれた。
それから私は、ルパンを抱え上げて水面に出て
意識がなくなっていって、……。
手を、放してしまった。
身体中が、冷えた。芯から凍りついた。
私がしっかりしていれば。
私が手を離さなければ。
そもそも、私がカーラに来なければ。ルパンの忠告に従って、アジトでおとなしくしていれば。
ジュディさんに脅されたときに、きっぱりと断っていれば。
私には何の力もなくて、いつもいつもルパンに助けてばかりで。
足を引っ張って。
それなのに、ルパンに追いつきたいなんて、思って……。
不二子さんに嫉妬して
悔しくて、悲しくて、苦しくて、息ができない。
目の前が真っ暗になってゆく。
このままいっそ、闇の中に落ちてしまえればいいのに。
「、大丈夫か?」
どれくらい呆然としていただろう、突然聞こえた明るい声に、私ははっと顔を上げた。
幻だと、思った。
私の視界には、ルパンの姿がある。脱いだジャケットを肩にかけ、黒いシャツの袖をまくったルパンの姿が。
起き出した太陽の光が崖の影になって、それでもきらきらとルパンの姿を照らしていた。
ああ、幻想なのだと思った。
そういえば、ここカーラの地は生と死が交わる場所と言われているんだっけ。
『生者と死者を結ぶ 太陽の降り立つ場所 大地の果て』。
アレキサンダーの手記に書いてあった言葉を、なぜか今、ぼんやりと思い出した。そうだとしたら、ここは楽園なのかもしれない
私は、何も応えられなかった。ただぼんやりとルパンの幻を眺めていた。まばたきをしたら消えてしまいそうで、霞んでゆく視界にルパンの影をとらえていた。
「どしたー?どこか打ったのか?」
怪訝そうな顔をしたルパンが近づいてくる。その動きは妙にリアルで、幻にしてみたらたちが悪いと思った。
でも。私の前に屈んだルパンからは、ちゃんと息遣いが感じられる。なにかが、おかしい。
うそ……これは……まさか。
「ルパン……?」
私は思考が停止した頭でルパンを見つめながら、呟いた。
「おいおい、頭打ったかぁ?これが俺以外の誰に見えんのよ」
声も。口調も。ルパンのもの、そのもの。
「え、で、でも……ルパンは……銃で撃たれて……」
「ああ」
ルパンは納得したように頷いた。
「そんで幽霊でも見たような顔してんのか。どうする?俺が化けて出てきたんだとしたら」
ルパンはどこかおもしろそうに、笑みを作っていた。
私は、頭がうまく回らない。
「幽霊なの?」
私が訊ねると、ルパンは苦笑した。
「いんや、生きてるよ。たとえ死んでたって、あいにく化けて出るなんて趣味はないんでね」
ルパンはジャケットの裏ポケットから、銃を取り出した。それは
「こいつのおかげで助かったのさ」
ルパンはとんとん、と自分の胸のあたりを人差し指で叩く。
たす、かった……?
私は、ルパンの上半身をまじまじと見つめる。ルパンのシャツにもジャケットにも、血痕一滴ついていない。
うそ。ほんとうに、ルパンは、生きてる?
ルパンは銃を胸ポケットに入れていて、カーラが撃った銃弾はそこに当たった、ということ……?
「んでも、けっこうな衝撃だったもんで、一瞬気が飛んでたんだな。気づいたら水の中で、おまえが引っ張り上げようとしてくれてた。で、代わりに気ぃ失っちまったを抱えて、ここに流れ着いたってわけ」
今ごろになって、右足の痛みをズキズキと感じた。
でもそのおかげで、これが夢じゃないと、わかる。
ルパンが、生きてる。
「よかっ……」
言葉が、続けられなかった。ぼろぼろと、涙が次から次へと溢れ出してくる。
ルパンが生きてる。
胸が詰まった。
よかった、ただその言葉が頭の中を埋め尽くす。私の中でずうっとこわばっていたものがするりと解けて、身体から力が抜けていくのを感じた。
「お、おい」
ルパンが珍しく、慌てたような声を出す。
人前で、ルパンの前で、涙を見せたくなんてないのに。止められなかった。今まで張り詰めていたものがぜんぶ、緩んでしまったよう。
せめて醜い顔をルパンに見られないように、頭を下げて目元を拭う。
でも、涙は溢れ続けてくる。地面にぽたぽたと小さな粒が染み込んでゆく。
「泣くなって、な?」
「だって……ルパンが死んじゃったかと……私のせいで……私が……」
「……」
私がようやく絞り出すように言うと、ルパンはしらばく何も言わなかった。呆れているのかと思ったけれど、ルパンは私の肩に手を載せた。泣くなと慰められるのかと思った。
けれど。そのまま優しく引き寄せられる。
何が起こったのか、わからなかった。
ただただ、ルパンのぬくもりが身体に染みた。
ルパンはもう、何も言わなかった。
濡れたシャツから、じんわりとルパンの体温を感じる。
ルパンのにおい。ルパンの鼓動。
ああ本当に、ルパンは生きている。
よかった
これ以上私が望むものはなにもないと、思った。
私の涙が止まるまで、ルパンはずっと、静かに抱きしめてくれていた。
(17.11.09)