八章:Alexander the Great...72
川の水で顔を洗うと、火照った目元にひんやりと染み入って気持ちがよかった。
「落ち着いたか?」
ルパンに訊ねられて、振り返る。ばつが悪くて顔を直視できなかった。
ずいぶんと派手に泣いてしまった、と思う。
今、冷静になれて、振り返ると。
ルパンが死んでしまったと思って、でも実際は生きていて、号泣してしまって。これじゃあ、私はルパンのことをまだ好きだと、思いきり認めてしまっているようなものじゃない、……。
「
私が言うと、ルパンは笑う。
「謝ることなんてないさ。ただの学者の女の子が、今までよくがんばったよ」
“ただの学者の女の子”というルパンの言い方が、ちくりと胸に刺さる。
ルパンは優しい。さっき抱きしめてくれたのも、女性が泣いているのを慰めるため、だ。
たぶん、これまでの私であれば、もう少し深く傷ついていたかもしれない。でもいまは、そういう切なさや悶々とした気持ちはもう二の次だ、と思った。ルパンが生きてくれているのなら。
話題を私の涙から引き剥がすために、私はルパンに訊ねた。
「次元たちはちゃんと脱出できたかな」
「大丈夫だろ」
ルパンは答えながら、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。はじめはルパンのものかと思ったけど、それには見覚えがあった。
先生の携帯電話、だった。私が持っていたはずなのに、いつの間に。
「それ……」
「ああ、先生のやつ。ここに発信機を埋め込んでた、って言ったろ?この電波を探知する機械を次元に渡してあるから、探してくれりゃあいいんだけど」
ルパンは困ったように口を曲げる。
「濡れちまったもんだから、電源が落ちたり入ったり、動きが不安定でなぁ」
先生の携帯電話には、防水機能はついていなかった気がする。たしか一番シンプルなものを選んだ、と先生が言っていたっけ。
「この陸地も先に続いてるんだけどな、ここが一番電波の入りがいいみたいだから、動かないほうがよさそうだ」
私が目を覚ましたときにルパンがいなかったのは、周りのようすを探っていたからなのだろうな、と思った。
ルパンは肩をすくめて、「つまり」、と続ける。
「今のベストな選択肢は、次元たちを待つってことだな」
たしかに、この絶壁を上に登れるとは到底思えない。さらに、陸地がどこまで続いているかわからない以上、上流のカーラにも下流の地中海方面にも歩いていくのは、消耗が激しいだろう。
「ま、そろそろとっつぁんも着くころだろうから、状況は良くなるだろうさ」
ルパンはそう言って、その場にあぐらをかいて座り込み、先生の携帯電話をいじりはじめる。
太陽がしだに顔を出しはじめる。崖の陰になりつつも、周囲がはっきりと明るくなってくる。
ルパンは唸りながら携帯電話とにらめっこ。所在ない私は、ルパンに背を向けて、ぼんやりと川の流れを見つめた。
流れが、早い。それに、深かった。
私は、つい先ほどまで全身を支配していた絶望感を確かめた。その片鱗はまだしっかりと残っている。ルパンが死んでしまったかと思った。今まで怖い思いはたくさんしたけれど、今回ほど打ちひしがれたことはなかったと思う。
そうだ、あのとき。父さんが撃たれたと聞いたとき。おじいちゃんが倒れたとき。そのときも、胸が押しつぶされるようになった。生きている心地がしなかった。
大切な人がいなくなるというのは、心の底から、辛い。
でもルパンは
私は、まだざわめく心臓をなだめるように、胸に手を当てた。そして目を閉じて、息を吐く。
ルパンに二度と会えないと思ったとき、さまざまな想いが溢れてきた。私はルパンに言いたかったことがたくさんある。それはもう永遠に伝えられないと悟ったときの、絶望的な暗闇と後悔。
でも。でも、今なら、まだ言える。ルパンは生きている。そして、私の声の届く距離にいる。
いま、言うべきだ。
きっとこれが、ルパンとふたりきりで話せる最後のチャンスになるだろうから。
次元が私たちを見つけてくれて、銭形警部とICPOがやって来たら、もうルパンと話せる機会はない。
いま言わないと、ずっと後悔すると思う。
私はしばらくじっと考えたあと、目を開けた。そして腕をおろし、ぎゅっと拳を握りしめる。
決意は固めたとはいえ、心臓の鼓動は早くなってゆく。
意を決して、振り向いた。
ルパンは立ち上がってうろうろしていた。携帯電話を空にかざしたり、振ってみたり。電波の良い場所を探しているのだろう。
「ルパン」
私が近づきながら呼びかけると、ルパンは携帯電話に目を落としたまま、「んー?」と返事をする。
「あのね、……」
私は、しっかりとルパンに声を届けられる距離まで近づく。手を伸ばせば、わずかに届くところまで。
「ルパンと会うのはこれが最後だと思うから、言うね」
ルパンは顔を上げた。「どうした、あらたまって」と苦笑する。
私はこれまで、ルパンとの関係を断ち切ろうと何度も努めてきた。そのたびに身を切られるような気持ちになった。そういう感情を押し込めて、見ないふりをしてきた。本当は奥底に根付いて離れない、ルパンへの想いを察していながら。
でも、今は。“ルパンとはこれで最後”ということを、しっかりと噛み締められていた。
ルパンは、私をかばって、撃たれた。もう少しで死んでしまうところだった。
私はやっぱりルパンのそばにいるべきじゃない。
私は不二子さんには到底敵わない。次元や五エ門たちのようにルパンと並んでいけるほどの力はまるでない。
だから優しいルパンとは一緒にいちゃいけない。
そう素直に、吹っ切れたような気分になった。
これが最後だから。きちんと、話をしたい。
「
私が言うと、ルパンは笑みを消す。ルパンに邪推させてしまわないうちに、私は続けた。
「私、ルパンに会えて、本当に良かった」
唐突に、ルパンとの想い出が溢れてくる。
夜の東京のドライブ。フィレンツェの夕暮れ。カプリ島への小旅行。ダンスや、ひまわり畑や、シドニーの街をめぐったり、豪華客船に乗ったり。食事をしたり、他愛もないおしゃべりをしたり。
ほんとうに、楽しかった。幸せだった。
ああ、やっぱりルパンとの別れはとてもつらいけれど。
あれほど泣いたのに、また涙が滲みそうになうけれど。
でも、今度こそ、大丈夫。
「父さんの美術品を盗んでくれたことも、私を何度も助けてくれたことも……いろいろなところに連れて行ってくれたことも。ほんとうに、ありがとう」
私は、笑った。たぶん、うまく笑えていると思う。
ルパンは
「ん、……あー、俺も、な。カプリでのあれは……ちぃとよろしくなかったって反省してんのよ」
「え……?」
ルパンが反省するようなことなんて、あったっけ。
「そ。あんときは多少、その、頭に血ぃ上ってたからな」
「あんときはさ、俺が言いたいこと言って、一方的だったろ?あれはべつに、ちゃんのことが嫌いになったからとかそんなんじゃなくてだな、おまえを危険な目に巻き込みたくなかったから、よ。ちゃあんと言えばよかったよな、うん」
ルパンはぽつぽつと語る。
「俺もさ、といるのは楽しかったわけ。なんというか……居心地、よかったしな……たまには悪くなかったぜ、ゆっくりすんのも。それに、なぜかおまえが絡むお宝は、盗みがいがある」
にっ、と笑うルパン。
胸が、ぎゅうっと押しつぶされそうになる。
「おまえは、いい
「そう、かな……」
「そ、俺が保証してやるって」
「泥棒のお墨付き、ねぇ」
「泥棒じゃなくて“ルパン三世”様、の」
私たちはふふ、と笑い合う。
「俺たちもいろいろ楽しませてもらったし、今回はの道案内に助けられたし、な」
ルパンは右手を差し出してくる。カプリでの、最後のときのように。
「俺からも、礼を言う。ありがとな」
目頭が、熱い。
うれしさと、切なさと、悲しみと。良い感情も苦い感情も、絶妙に入り混じっていた。でも、どこか晴れ晴れしい明るさがあった。
ルパンと出逢えて良かったと、心から思えた。
ルパンを好きになって良かった、と。
これで、きれいな最後にできる。
「私のほうこそ、ありがとう」
私はルパンの手を取る。ルパンは、がしりと握り返してくれた。
私は、笑った。ルパンも笑ってくれた。
(17.11.14)