しばらくぼんやりと、の寝顔を見つめていた。一向に目覚める気配のない姫。
『一度、やってみたかったんだ。囚われの姫を助けるナイトの役』
そうだよな。お前、そう言ってたよな。きっと、お前の方が誰かを助ける役に向いている。俺はあの時、助けてもらったのに    

あと5分経ったら戻ろう。そう思いつつも、シリウスは腰を上げられなかった。今にもが目を覚ましそうだったから。本当に、ただ眠っているだけのようだった。あと3分、もう少しだけ。そう繰り返して、結局数十分経ってしまった。
もう戻ろう。決心して立ち上がった時だった。微かな呻き声を聞いた気がして、耳を済ませる。しかし、は相変わらず横になったままだった。気のせいかと僅かに肩を落として、扉の方へ向き直る。

「……っ……う」

今度ははっきりと聞こえ、シリウスは慌てて振り向く。今まで表情のなかったの顔には、苦渋の色が浮かんでいた。

「ん……」

彼女の眉は、苦痛に耐えているようにぎゅうと中央に寄せられている。

「お、おい……!?」

肩を掴み、揺すると、は苦しむように顔を左右に振った。
ダンブルドアを。     いや、駄目だ。咄嗟にムーディの言葉が脳裏に蘇ってくる。
『もしフィンスターであれば     分かるな?』
は殺されてしまう。けれども、苦しんでいる様子なのに、このまま黙って見ているのも、……。シリウスの頭は混乱しかけていたが、今はただただ必死にの名を呼んだ。戻って来い、と。
そして、強く閉じられていたの目がゆっくり開き始める。シリウスは静止した。天井を向いていた彼女の目は虚ろだったが、やがて徐々に視点が定まってきたようで、何度か自分の意識を確認するかのように目を瞬かせた。
果たして、フィンスターなのか、それとも。
シリウスは杖を持って来ていないことを思い出したが、この際どうでも良い、と思った。仮にフィンスターだったとして、奴も杖は手元にないのだから、下手な真似はしないだろう。
     それに、フィンスターならば、はもう永遠に帰って来ないような気がした。

「……?」

祈りを込めて、シリウスは呟く。
彼女は僅かにはっとしたように目を大きくさせ、シリウスを見やった。彼女は口を開くが、言葉が出てこないようだった。シリウスはどくんどくんと全身が脈打つのを感じながら、彼女の言葉を待つ。

「私、どうし……?」

独り言のように、ぽつりと言う。シリウスは、声が出なかった。
、なのだろうか。それとも、これも演技?ごくりと唾を呑んで、シリウスは口を開く。

、なのか?」

彼女はゆっくりと上半身を起こす。自分の手の平を眺めたり、頭に触れたりしていた。

「やっぱり……『フィンスター』に、意識が奪われてたんだね」

まだ判別できない。まだ判らない。かもしれない、フィンスターかもしれない。

「私、何した?」
「え?」
「さぞ暴れまわったことでしょう?」

は哀しげに目を細める。

「いや……それは」

躊躇いながらも、シリウスは語った。あの遺跡で、    フィンスターがヴォルデモートのもとに去って行ったこと。だから、それから先の『フィンスター』の行動は分からないこと。漏れ鍋でのこと。

「そっか。私がね、憶えてるのは……ヴォルデモートが来て、奴に触れられて、壊れるくらい頭が痛くなったこと。その時、感じたの    ああ、フィンスターが目覚めるな、って。あとはずっと、闇。眠って、夢を見てるみたいな感覚。でも、永遠に私の目は覚めることがないだろうな、って思った」

淡々と、しかし何かを噛み締めるようには語った。
徐々にシリウスの不安も緊張も解れていく。もしかして、本当の『』なのではないだろうか、……。

「闇の中はフィンスターの意識の中だったんだろうけど、    どうにも、できなかった」

漠然と、感じ考えることしかできなかった。いつかあの闇に飲まれてしまうだろうと思った。外へ出たい。私の身体を返してと叫んでも、声にはならなかった。身体を動かそうとしても、動いているのか分からない。何もかも不明瞭な感覚だった。次第に、考えることさえぼんやりとしかできなくなっていった。

「でも、リリーの声が聞こえて、はっとした。その時、漠然と『外』を感じることができて……リリーが殺される、って思って」
「リリーをかばった、のか」

そう、とは失笑した。そこはなんとなく憶えてる、と。
必死だった。ただ、リリーを死なせたくないと、それだけの思いだった。『思い』というほどはっきりしていたのかは分からない。ただ漠然と『感じた』だけかもしれない。

「リリーは?」
「無事だよ。子供も」
「そっか、良かった」

シリウスは子供が産まれたことも話そうと思ったが、やめておいた。それはまた後で良いだろう。今は、彼女が戻って来てくれただけで、充分。
シリウスは再びスツールに腰掛ける。

「本当に……、なんだな」
「お陰さまで」
「何ともないのか?身体は」
「うん。頭痛もないし、痛いところもないし」
「さっきまで、リリー、ここにいたんだ。心配してた」
「……うん」
    もう戻らないって、思ってた」

私も、とは苦笑する。

「もう戻れないと思ってた。死んじゃったと思ったし」
「お前、それ、笑えない」

顔をしかめてみせるシリウスに、ごめんとは笑った。久しぶりに、笑うということをしたような気がする。顔の筋肉が上手く動いているか、自信はなかったけれど。

「あのなあ。本気で心配したんだからな」

シリウスに言葉に、は笑みを吹き消した。心臓の鼓動が、早くなってゆく。

「……心配してくれてたの?」
    当たり前だろ」

そうだよね、友達だもんね、ありがとう。その言葉が喉から出かかったが、はやめた。
友達なんて呼べる資格、ないじゃないか。私は彼を傷つけた。自分勝手なことをした。

「私、傷つけることしかできないのに」
「え?」

シリウスは声を上げてを見、は自分の手の平を広げ、眺めた。

「たぶん    たくさん殺したんだろうな……漠然と、分かるよ」

シリウスははっとした。

「アズカバン送りかな」
「そんなわけないだろ。の意思じゃないんだから」
「でも、呪文を唱えたのは紛れもなく私の口だし、杖を向けたのは私の手だよ」

シリウスは思い切り眉を寄せた。それを見て、は首を横に振ってみせる。

「分かってる。大丈夫。そんなに神経質になってないから」
「……あんまり思い詰めるなよ、いろいろと」
「いろいろ?」

言ってしまって、シリウスは口を噤んだ。は怪訝そうな顔でシリウスを見やる。そして、察した。ああ、知ってしまったんだね、シリウス。

「フィンスターから流れた『呪い』のことね。誰から聞いたの?ダンブルドア?ジェームズ?……きっと私からだったらずっと話せなかったろうから……言ってくれて、良かった」
「フィンスターから聞いて、詳細はダンブルドアが話してくれた」

フィンスターが、か。怒りの感情はなかった。ただ、絶望が大きかった。いつか話そうとは思っていたけれども、やはり怖かった。真実を語ることが。そう、だから、奴の口から話してくれて良かったのだ。

「素晴らしいよね。ダンブルドアより長生きできるかもしれないよ、私」

冗談のつもりだったけれど、シリウスは笑わなかった。むしろ、重い表情をしていた。だから嫌だったの。こういう顔をされるのが嫌だったんだ。むしろ、笑い飛ばしてくれた方が良かった。

「だから    そのせいで、俺たちと別れたいって言ったのか?」
「それは、……」

は必死に言葉を選びながら、頷いた。

「……そう。みんなと一緒の時間を生きられないなら、離れようって、思った」
「なんで決めつけるんだよ」
「だって、そうでしょ」

声を荒げるシリウスに、の語調も強まる。

「みんなが年を取っても、子供ができても、孫ができても、……死んでも、私だけずっとこのままなんて、耐えられなかった。だから、今のうちにみんなから離れた方が、楽だと思った」
「それなら、どうしてジェームズとリリーとは和解したんだ?」

は顔をしかめ、目を落とす。
どうして俺には話してくれなかったんだと、シリウスの口調はそう物語っていた。

「前に……言ったと思うけど、やっぱり、リリーは特別だったから」
「分かってる。でも、俺たちにだって話してほしかった。何か理由があるなら、はっきり言ってくれ」
「理由なんて……違う    そうじゃなくて……言えなかったのは」
「ひとつだけ、教えてほしい」

を遮って、シリウスは静かに口を開いた。ずっとずっと聞きたかったこと。怖くて聞くことのできなかったこと。でも、今なら問うことができる。もう彼女を失ってから、後悔はしたくない。

「『冷めた』……のは、本当なのか?俺の、こと」

ははっとした。イエスと言うべきだろうか。一瞬、そう思った。でもそれは私の本心じゃない。違うと言いたかった。でも、言えない。けれど、彼をこれ以上傷つけたくない。でも、シリウスには恋人がいる。……、……。

「そうならそうだって、はっきり言ってくれていいんだ」
「違う」

シリウスの声音が切なくて、咄嗟に否定してしまった。

もう傷つけたくない。
シリウスのことは、もう。


     好き、だったから」

苦しいくらいに、あなたのことが。

「だから、シリウスには、言えなかった。怖かった。友情と恋って、違うものでしょう?友人には打ち明けられた。でも、シリウスには……こわくて……言えなかった」

あなたのことが、大好きだったから。言えなかった。
口にして、はっきりと感じた。そう、私は、シリウスのことが好き。その尊い想い、変えられない想いに。何があっても、リリーのことが大切なんだと思った、あの時のように、鮮明にそう感じた。

「私が勝手に好きになって、勝手に離れていって、自分勝手で、本当にごめん……。ずっと謝ろうと思ってた。でも    シリウスの幸せ、ずっと祈ってるから……だから、ソフィアさんと、幸せにね」

何、言っているんだろう。滅茶苦茶だ。でも、おかしいな……目が、熱い。
いまさら気づいたって、どうしようもないのに。いまさらこんな告白をされたって、シリウスにとっては迷惑だろうに。いまさら謝ったって、どうにもならないのに。いまさら、……私、……ばかみたい。

「ほんっと勝手だな、それ」

シリウスは黙って聞いていたが、やがて口を開いた。は伏せていた目線を上げる。彼の視線とぶつかった。灰色の、瞳。ジェームズたちと連んで悪戯なんかしている時はきらきら輝いていたのに、たまにとても深い色になる。どちらも好きだったけれど、今は後者だなとは思った。けれども、とても優しい目、……。シリウスが、すぐそこにいる。

「お前は過去形なのかもしれない。でも、俺は     

これが、『答え』だ。これが本心。否定されるのが怖くて、拒絶されるのが嫌で、隠して、自分でも気づかないところへ迷い込んでしまった、本当の想い。それを今、取り出してやらないと、きっと後悔する。

が、好きだ」

嘘。は、喉が張りついて声が出なかった。ゆめだ。そう、これは夢なんだ。私はまだ夢の中にいるんだ。目覚めていないんだ。こんな現実、ありっこない。こんなことありうるわけがない。
シリウスはの言葉を待った。しかし、は僅かに口を開いたまま、呆然としているだけだった。

     悪かったな。病み上がりなのに」

軽いため息と共に、シリウスは漏らす。そして、ゆっくりと腰を上げた。ゆっくり休めよと、シリウスはに背を向ける。
    この光景、何処かで見たことがある。はぼんやりと感じた。そうだ、あの闇の中でだ。フィンスターの意識の中で、虚ろに幻を見た気がする。あの時も、シリウスはこうして自分に背を向けた。でも、手を伸ばしても伸ばしても届かなかった。シリウスと叫んでも、彼が振り向くことはなかった。

「シリウス…!」

今の光景がその幻と重なり、身を震わせるような不安が襲ってきて、は声を上げた。
でも、今は、シリウスは振り返ってくれた。ああ、夢じゃないんだ。戻って来たんだ。

「……私、……年を取らないんだよ」

シリウスは身体をに向ける。は視線を落とした。

「それに、ソフィアさんは」
「それは、……何度も考えた。それでも    やっぱり、お前と一緒にいたいって……思った」
「いられないよ、一緒になんて!だって、私は、……ずっとこのままで」
「お前がどう考えようと、俺がそう思っただけだよ」

半ば叫ぶように語るを、シリウスはそっと宥める。
『あなたが心を閉ざしてしまっているだけ』。先ほど、リリーに言われた言葉。お節介なリリー。悔しいけど、彼女の言葉は当たっている。でももう不器用だなんて言わせないからな。

「どうして?ど、して私なの……?シリウスに見合う人、たくさんいるのに」

嘘つき。本当は、ソフィアに苦しいくらい嫉妬していたくせに。彼女のシリウスに対する想いは真剣なものだと、分かっていた。でも、私の方がシリウスを想っていたと、そう考えてしまったこともあった。
アナタよりもワタシの方がシリウスのこと何倍も好きだったんだから、と。
諦めようと思っていたくせに。でも、素直にシリウスを好きと言えるソフィアのことが羨ましかったんだ。

はらり、と頬を熱いものが流れた。視界の中のシリウスが歪んでいく。は目を伏せた。その雫が、静かにの甲に滴り落ちる。
そうだ、はこういう泣き方をする。自分を押さえ込むように。
そういう彼女が    愛おしいと、思う。
シリウスはベッドの上に腰掛け、涙を流すを見つめた。

「……お前、言っただろ?『毎日の積み重ねだ』、って」

あの夏の日に言った、の言葉。

「チェスをしたり、話をしたり、そういう当たり前のことを繰り返してきた。隣にはいつもがいた。楽しかった。楽しかったと思えるのは、が隣にいたからだ。    ソフィアや……他の人と付き合って、はっきり解った」
「シリウスは、懐かしいだけ、だよ。学生時代、ジェームズたちと、笑い合ってたのが」
「それもあるかもしれない。でもそれはそれで、お前のこととは違う」
「そうじゃない。きっと、私には、共有する思い出があるから、……」
「お前、な。そうやって、俺の考えを否定するな」

シリウスは強く言いながらも、の頬に流れる涙をそっと拭った。

    信じられないなら、証明してやろうか?」

えっ、と声を漏らし、は思わず顔を上げた。挑戦的なシリウスの瞳に取りつかれる。
シリウスはの頬の触れたまま、まだ少し湿ったの頬から、温もりを感じていた。以前とは違って、温かい。は、ここにいる。生きている。『』だ。もうあんな思いは、いやだ。

「シリウ、」

口を開いたに、シリウスは唇を押しつけた。今までの時間を取り戻すかのように。先ほどとは違う、はっきりとした温もりを確かめるように、強く。
唐突なことに頭が回らないは、両手を宙に泳がせていたが、やがてシリウスの背を掴んだ。
シリウスの温もり。シリウスのにおい。シリウスの背中。シリウスの手。
    ほんとうは、ずっと、こうして触れたかった。再び、涙が流れる。
シリウスははっとして、から顔を離した。泣かせるつもりはなかったのに。
解放されただったが、両手はシリウスの背に宛がったままだった。
離れたくない。せめて、今だけでも。

「……リウス……シリウス…」

溢れてくる涙を止めることは、できなかった。
最初は、私になんてシリウスが振り向いてくれるはずがないと思っていた。リリーのように可愛くもないし、ジェームズのように気さくでもないし、リーマスのように優しくない私。何の取り得もない私。でも、その思いに反比例するように、シリウスを想う気持ちは日に日に強くなっていった。その想いが彼にも伝わって、シリウスも同じ返事をくれた。至福だった。けれど、突きつけられた現実に耐えられなくて、彼から離れた。そうしたはずなのに。離れたはずなのに。忘れたかったはずなのに。
老いない身でも、闇の力を継いでも、シリウスを想う気持ちは、どうしても、何をしても、変えられない。

「私…っ……ごめん……解ってるのに、……」

泣きじゃくるを抱く力を、シリウスはそっと強めた。

「忘れたかった……シリウスのこと……辛いだけだと思ったから……でも     だめ……だった」

彼の肩に、額を押しつける。

「シリウスが………好き……」

微かに、消え入りそうな声で、は言う。
シリウスは目を閉じ、     彼女の温もりを、全身で感じた。

「だい、すき……」

は、それまで溜まっていたものをすべて押し流すように、泣いた。身体全体をまとっていた嫌なものが、剥がれおちてゆくような心地がした。
それが落ち着いてくると、シリウスは目を開け、腕の力を緩め、を見つめる。右手を彼女の背から離して、そっと涙の痕に触れた。

「俺は、がいてくれればいい。お前は辛いかもしれない。でも、もう、一人で抱え込むのはやめてくれ。離れていくのは、もう」

もういやなんだ。お前がいないのは
シリウスは、今度はそっと、に口づけた。

「傍に、いてくれ    

 

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07/12/21