その書斎に、シリウスはチェスボードと駒を持って来た。どこかで見たことがあるなと考えていたら、ジェームズのものらしい。

「ジェームズがゴドリックの谷に行く時、貰ったんだ。ハリーにあげればと言ったが、『ハリーには新しいのを買うからいい』って」

そうだったんだ。でも、きっと、ジェームズはシリウスに持っていてもらいたかったのではないだろうか。
机を挟み、彼と向かい合う。その間に流れる空気は、多少の違いはあれ、学生時代のものと変わりなかった。穏やかで、優しくて、でもちょっぴり刺激のある、……。

「チェック・メイト」

そんなことをぼんやり考えていると、キングが奪われていた。

 

98. APORIA
この問題には哲学者も答えられない

 

「憶えてるか?」

チェスボードと睨み合っていたは、顔を上げてシリウスを見た。

「クリスマスの日。俺たちだけ残ってチェスをしたことがあっただろう」
「……憶えてる」

もちろん、忘れるわけがない。シリウスとの思い出は、一つ一つ、胸の中にしまってある。

「あの時も俺が勝ったんだったな?」
「よく憶えてるのね」
「記憶力は良い方でね」

シリウスは笑みを見せることなく、真っ直ぐな瞳をに向けた。

「あの時、俺が勝ったら『何でもする』    そう言ったな」

今更、どうしてそんなことを持ち出すのだろう。そうは思ったが、「言った」、とゆっくり答えると、シリウスは数秒の間目を閉じ、再び開けての瞳を見つめた。

「あの時は、保留にした。でも、その約束を、今使う」
「え?それって、」

ずるくはないですか。さすがに時効でしょう。言い返す前に、シリウスがすばやく告げた。

「お前の本音が知りたい」

は固まった。
『本音』。何を言っているの?わたしのほんね?

「この前のことだよ。つまり、お前は何が言いたいんだ?年を取らないから俺を愛せない、と?」

シリウスの口調と目付きは厳しくなっていた。責め立てるような声音。

「俺はハリーとの暮らしを望んでいる。でも、ハリーと『ふたりだけで』なんて思ってない。3人でだって、」
「できない」

は何度も首を横に振った。

「できない……私は、どうしてもハリーの中にジェームズとリリーを見てしまう。ハリーといると、辛い。ふたりがまるでそこにいるようで、辛いのよ。ハリーはハリーだって解ってるけど」
「解ってるならいいだろう?そんなことは、言い訳にしか聞こえない。それは全部、お前の『状況』だろう。俺が知りたいのは、、お前が俺をどう思っているかだ」

は目を閉じた。
言い訳、本音、建前、私の気持ち。暗闇の中で、それらの言葉がぐるぐる回っていた。

「俺を愛せないのならそれでいい。リーマスが好きならそれでいい。でも、不老のことやハリーを理由に使うな」

ちがう、ちがう。私は……。は拳をぎゅうと握り締め、目を開けた。

「言い訳と言われてもいい。でも、私にとっても、ハリーにとっても、シリウスにとっても、私たちが『友人』であることが、一番良いんだよ」

シリウスを見るのが怖くて、顔を上げられなかった。そうせずとも、彼の憤りは空気を伝わって感じられた。怒るのは当然だ。なにせ、    私が先に彼のことを好きになったのに。勝手に別れを告げて、また寄り添うようなことをして、そしてまた、彼から離れようとしている。

「どうしてそう思う?」

シリウスは、怒りを抑えるように、低く、静かに尋ねた。しかし、が口を開くのと同時に、彼自身が言った。

。俺の目を見ろ」

一瞬躊躇ったが、はそっと目を上げて、シリウスの瞳を見た。深い色。きれいな色。

「俺の幸せは何かって聞いたな。それは、俺が感じるものだ。お前が決めつけるなよ」

シリウスの語調は穏やかなのに、何故か身体が萎縮してしまう。

    もう一度、言う。俺はお前を愛している。俺が聞きたいのは、その答えだ」

おまえをあいしている。
全身が震えた。鳥肌が立った。は堪えきれなくなり、視線を逸らした。この場から逃げたかった。けれども、足が動かない。手も動かなかった。握り締めた拳の中は、汗ばんでいた。
シリウスはそれきり何も言わなかった。の言葉を待っていた。

『あなたのことは、愛していない』。そう言ってしまえば良い。シリウスはそうかと言うだけだろう。そうすれば解決ではないか。シリウスとは友人に戻る。リーマスと3人で、また仲良くおしゃべりをする。それが、一番良い。『私は、ただ単に、あなたを愛していないだけなのよ』と、そう言ってしまえば。

    君はシリウスを傷つけた。
ふと、ジェームズの言葉が蘇ってきた。老いない身のことを知り、シリウスから離れた時、言われた言葉。別の時も、ジェームズは言っていたっけ。
シリウスは傷つきやすいんだ。こと愛情っていう感情に関してはね。ほら、あいつ、親の愛を知らないだろう?平気そうに見えるけど、結構引き摺ってると思うんだよね、僕は。

『シリウスを傷つけるなよ、』。

ジェームズの声が聞こえたような気がした。

私だって、シリウスを傷つけたくはない。でも、仕方ないでしょう?もう、私は彼を同じ時間を歩めない。シリウスは先に死んでしまう。彼を愛すれば愛するほど、辛くなる。独り取り残された私はどうすればいい?彼の不在の悲しみを背負って生きてゆかなければならない。シリウスにとってだって、今別れておいた方がいいに違いない。
そう。そうだ。

「簡単に言うけど    この身体のこと、本当に解っている?」

ようやく口を開いたに、シリウスは眉根を寄せた。

「ずーっとずーっと長生きしていくんだよ。今のこの瞬間なんて、私にとっては僅かな時間で、その僅かな時間、シリウスを愛せばいいの?その後は?シリウスがいなくなった後、私はどうすればいい?寂しく生きていけばいい?」

止まらない。ほんとうは、こんなことを彼に言うべきじゃないのに。
でも、あなたを失った後のながいながい真っ白な時間を思うと、怖くてたまらない。

「シリウスはいい。先に逝ってしまうから。でも、残った私は?」

「それなら、そんな想い、ここで断った方が楽なんだよ!」

重い沈黙が落ちる。
もっともっと早くにシリウスのことを諦められたはずなのに。こんな風に半端な想いをずるずると引き摺ってしまって、訳が分からなくなっている。
でも。今、ここで、断ち切るべきだ。ここで、きっぱりと。

「だから    お願い。私なんかのことは忘れて。シリウスなら、他にすてきなひと、見つかるから」

苦しい。息ができない。
他の女性と楽しそうに笑っているシリウス。
それを私は嬉しそうに眺めている?

    それなら、どうして昔に言わなかったんだ」

頭を垂れるに、シリウスは絞り出すように言う。

「どうして撥ねつけなかったんだよ、俺の言葉を。その指輪も」
「……ごめん」
「俺が待たせたのは1年だったよな。俺は何年待ったと思う?」
「ごめん」
「お前の幸せは何だよ、

は頭を下げたままはっとした。
わたしのしあわせ。

「そこに、俺の居場所はないのか?」

は答えなかった。答える代わりに、首から提げたリングを、チェスボードの上に置いた。
シリウスはしばらく動かなかったが、やがてそれを鷲掴みし、「分かった」と答え、去って行った。

何かが音を立てて崩れたような気がした。

 

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08/1/18