けれど、
はその場で、しばらく呆然と立ち尽くしていた。
ルーピンは狼人間。
あの優しい彼が。あの穏やかな彼が。狼のイメージとは全くかけ離れている彼が?
毎月、スネイプの薬で人狼化の影響を抑えているのだろう。必死に、人の意識を保っている。自分の中の獣と戦いながら。人の意識に、縋りついている。
その傍らでは、音楽は流れているのだろうか。どんな音楽が流れているのだろうか。
彼の抱えた苦しみ。計り知れない苦痛。
それを思うと、途方もなく胸が痛くなった。
なにか、私にできることはないだろうか。
誰かのために何かをしたい。痛い真剣にそう考えたのは、初めてだった。
は震える足で、ルーピンの事務所へ向かっていた。
決心するまでに時間がかかった。何度も何度も何度も葛藤があった。もし断わられたら?もし不快な気分にさせてしまったら?もし、嘲笑されたら
でも、そうした思いのひとつひとつよりも、ルーピンを少しでも喜ばせることができたら、という考えが勝った。ルーピンの笑顔が見たい。彼には笑っていて欲しい。
恋愛とかそれに対する恐怖心とか、どうでも良いじゃないか。ただ、音楽好きの同僚として、彼を励ますことができれば。
「ルーピン先生、今、良いですか?」
「どうぞ」
相変わらずルーピンの事務所には音楽が響き渡っていた。ヘンデルの『サラバンド』。ゆったりとして物悲しいその曲は、の決心を鈍らせた。けれど、相変わらず『サラバンド』もの好む曲の一つだった。だから
「あの、……私の伯父が、クリスマスにライブを開くんです。もし良かったら、ご一緒にどうかと思って」
言った。言ってしまった。やっぱり言わなければ良かった。いや、言って良かった。葛藤は続いていたが、それよりもルーピンの返答が恐ろしかった。彼はに背を向けてグリンデローの水槽を眺めていたが、やがて振り返った。笑顔にも見えるし、困ったような顔にも見えた。
「何処で開かれるんだろうか?」
「ロンドンだそうです」
「ロンドンか……是非、行きたいな……と言いたいところなんだが……クリスマス近辺は、都合が悪くてね。遠出ができないんだ。本当に申し訳ない」
ルーピンは申し訳なさそうに、曖昧な口調で言った。
がつん、と頭を叩かれたような気がした。なにも、返す言葉が出てこない。
伯父に連絡を取って、特別席のチケットを手に入れて。「なんだ、ようやく恋人ができたか?」、とからかわれ、「違うよ、音楽が好きな人が同僚にいるの」と答えた。「最高のクリスマスにしてあげよう」、と声を弾ませて言った伯父。まだ相手を誘っていないから確約はできない、と言いそびれてしまった。
そうだ。クリスマスといったら、恋人がいるならば恋人と過ごすだろうに。考えていなかった。ルーピンには恋人がいて、彼女と過ごすのだろう。もうプレゼントは買ったのだろうか。ルーピンの恋人も、音楽が好きなのだろうか。何処で知り合ったのだろうか。彼女はマグルだろうか、魔女だろうか。美人だろうか。
胃の辺りから熱いものが込み上げてきて、全身を駆け巡った。嫉妬。悲しみ。後悔。様々な感情が湧き上がってきた。
ああ、私、馬鹿だった。彼を喜ばせたい一心だったけれど、その役目は他にいるではないか。
けれど、
「次の予定はもう決まっているのかな?演奏会の」
「え?え、……ええと、……前も言った通り、伯父は気まぐれなので」
「そうか……」
「今回のライブも、突発的に決めたらしいです。……伯父は、曲目もライブ当日に決めるんです。来てくれた人の顔を見たり、その日の気分で決めたり」
へえ、とルーピンは目を輝かせたが、すぐにその光は消えた。そして、「とても残念だ」、と言った。
ははっとした。12月25日。もしや、
暦を確認しなければ断定できない。でも、もしかして、……
黙っているよりも、はっきりと言った方が相手を傷つけずに済む。はっきりした性格の、伯父の言葉だった。は全く逆の性格だったけれども、は伯父が好きだった。親戚の中でも家族の中でも、彼とはとても気が合った。伯父を誰よりも尊敬していた。
「……ルーピン先生……すみません!私、スネイプ先生とルーピン先生の会話、聞いてしまったんです。だから、
「え?あ、そうか……知らなかったんだね」
意外なことに、ルーピンはショックも受けていないようだったし、驚いてもいなかった。
「そうか、そうだった。なんだか慣れないなあ。難しい」
「え?」
「いや、何でもない。ともかく、そう。クリスマスは満月の夜に当たるから、部屋で大人しくしていなければならないんだ」
ルーピンは苦笑いのような笑みを浮かべた。
そうか、そうだったのか。別に、恋人と過ごすわけではないのか。安堵したのも束の間、それは恋人がいないということとイコールではない。恋人はいるかもしれないし、想い人がいるかもしれない。
なんでそんなことを気にしてるの、私。
いや、でも、そういうことなら。
「……分かりました。それじゃあ、また伯父に予定を聞いてみますね」
「ありがとう」
ルーピンは笑顔で応えてくれたが、その瞳はどこか哀しげに思えた。本当に楽しみにしていてくれたのかもしれない、と思った。
他のことは考えるな。ただ、彼を喜ばせることだけを考えよう。
同じ音楽を好きな者同士として。同僚として。
けれど、……少しばかり、期待があった。頭の隅に、胸の端っこに。
もしかしたら、また人を好きになれるのではないか、と。
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07.9.20
♪『サラバンド ヘンデル』