逆転時計を使うことで、過去が変えられるわけではない。
いつか耳にしたところによると、結局のところ「逆転時計を使った」ということを含めて現在の因果なのだという。
だが、私にはそんな理屈はもう、どうでも良かった。
ただ、に会わなければいけないという思いだけが、私を突き動かしていた。
死者を前にした無力感。
伝えきれなかった言葉、果たせなかった約束。そういったものが後から後から湧いて出てきて、泡沫に消えてゆく。
私は、の病室へとやって来た。病室の奥、カーテンを開ければあいつがいる。
何を伝えればいいのか。
どんな顔をすればいいのか。
わからない。
わからないが、私には時間がないのだ。
私はすべての迷いを振り切り、カーテンをくぐり抜けた。
は窓の外を見ていたが、不意に私に気がついた。
「どう……して……」
は心底驚いたようで、目を丸くさせていた。
私の想像の中のよりもだいぶ痩せ細っていた。この数日でではないだろう。毎日顔を合わせていたから、気づかなかったのだ。の変化に。
「ダンブルドアから……事情を聞いた」
逆転時計のことは伝える必要はない。ただ、“当時の私”がやって来た体にすればいい。
は「そっか」とどこか儚く微笑し、顔を伏せて「ごめんね」と言った。黙っていてごめん、と。
私は何と返答すべきか迷った。
が初めから病気のことを私に告げなかったのは、歓迎すべきことではない。
ただ、再開した当初から伝えられていたとしても、私は何ができただろう。
治る道を探せたかもしれない、とは何度か考えた。
しかし、私はマグルのことなど何もわからない。
が私に何も告げなかったことを、責める気持ちはない。
「ごめんなさい……」
しかし、は顔を上げてそう言い、心からすまなそうに頭を下げた。
私は正直に自分の気持ちを言った。
「いい。なぜ言わなかった、とは何度も思ったが、結局私は……何も、できなかっただろう」
「そんなことないよ。セブルス、私は本当に楽しかったよ。この一年、ほんとうに……」
「ああ」
は手紙に何度もそう書いていた。
私も、楽しかった、のだと思う。
もう一度、一年前に戻れるのなら、どんなに良いだろう。
いや
がこの先もホグワーツにいれば
。
虚しい空想を振り切るように、私はに言った。
「具合は、どうだ」
「うん、今日は温かいし、悪くないよ」
「そうか」
話をしているうちに、少しずついつものに戻ってくる。
「そうだ」と明るい声を上げた。
「看護師さんに、外に連れて行ってもらおうと思ってたの。代わりにセブルスが、連れ出してくれない?せっかくだから桜を観に行きたいなあ。咲いてるかな」
一気にそうまくし立てる。
たしかに、この病室では他にも人がいるので話しにくい。
外に行っても問題がないのなら、私も歓迎すべきところだか。
「いや……だが」
「大丈夫、大丈夫。信頼できるとっても良い看護師さんがいるの。内緒で、お願いするから」
大丈夫なのかという問いをするまでもなく、が答えを言う。
そして早々とベッドのそばに置かれているボタンを押した。中年の女性がやって来る。
が出かけてきても良いか訊ねると、彼女は私の顔を見たのち、を見つめた。
「そうね……今日は顔色も良いみたいだし、三時までに戻るなら」
「ありがとうございます」
とのやり取りで、この女性は信頼されているのだろうということが伺える。
あまり騒ぎすぎるなと念を押され、私たちは外へと向かった。
病院の中には小さな公園があり、患者が散策できるようになっていた。
私はそこを目指すのかと思い込んでいたが、は「桜が見たい」と言った。昨年の春にも訪れた公園へ行きたい、と。
まさかそれほど遠くへ連れ出すのはどうかと私が渋っていると、「セブルスが一緒なら大丈夫でしょ」とは軽く言う。
幸い件の場所は病院から近いところにあることと、私は迷っている時間も惜しかったので、に従うことにした。
いざとなれば魔法を使えば良いだろう。
は車椅子というものに乗っていた。椅子に車輪がついており、搭乗者自身がその車輪を動かすことで進むという仕組みらしい。後部にハンドルがついており、他人に押してもらうこともできる。
今回は私は椅子を押してやることにした。
はどこか浮ついているのが伝わってくる。
病人だとは、思えない。
しかし後ろから細い肩を見ると、胸がいたたまれなくなった。
私たちは、桜が見渡せる小高い丘に来た。
は車椅子から降り、草むらに腰掛ける。
沈黙が続いた。
は桜を眺めている。
花を咲かせているのは半分ほどだろう。花盛りには遠い。しかし、淡い色の花々は美しかった。
何を、に伝えるべきか。
手紙を読み、行き場のない言葉が浮かんできたのはたしかだったが、それが具体的にどのようなものであるのか、未だにわからなかった。
病院にはあと小一時間で戻らなければならない。移動時間も考えると、とふたりきりで話ができるのはあと数十分程度だろう。
何を言うべきなのか。
「セブルス」
私が思考をうつろわせていると、が言った。
「セブルス……今日は、ありがとう。来てくれて、ありがとう。ここに連れて出してくれてありがとう」
聞きたくない。遺言めいた言葉など。
「それから、今までのことも、」
「よせ」
私はを遮った。しかし、続く言葉が浮かばない。
唐突に、私は、「現実を受け入れたくない」と感じた。駄々をこねる子どものように。
いま、は私の目の前にいる。
しかし数時間後には
いなくなってしまうのだ。
そんなことが、あるか?
たしかに息をして、身体を動かしている人間が、一刻後には動かなくなるのだ。
いやだ。
絶望的な意識に支配され、私は身体が空になった。
の目線を感じる。
時間がない。何かを言わなければならない気がするのに、言葉が何も出てこない。
春の冷たい風が頬を撫ぜるのと同時に、が言った。
「セブルス。最後に、話せて良かった」
さいご。
の口から聞きたくなかった言葉が、胸を貫く。
「最後だなんて……言うな……縁起でもない」
とっさに口をついて出た内容は、とんでもなく陳腐なものだった。
を見ると、異様に落ち着いているような表情で首を横に振った。
「ううん。いいの、大丈夫。……正直に言うと、すごく怖いけど、でも、これ以上ない最後だと、思う。大好きな人と一緒にいられるから」
私は、何も返せなかった。
ただただ、の言葉が身体に染み入り、どこまでも虚しい気分にさせる。
せめてが微笑んでいるのが、救いかもしれない。
「セブルス。ちゃんと、見守ってるからね。ほら、魔法界だと、お化けになっても傍に行けるじゃない?セブルスが不甲斐なかったら、化けて出るからね」
こいつならたしかに守護霊になって出てきそうだ、と思うと、少しだけ慰められる。
『きみの想いを、伝えずとも良いのかな』
ダンブルドアの台詞が脳裏をかすめる。
私は。
「良
かった」
かすれた私の声は届かずに、は「え?」と聞き返してくる。
「おまえが来たこの一年……悪くなかった……と思う……」
できることなら次のひととせも、という願望は、胸にしまわざるをえなかった。
「花見だの、海だの、面倒な場所に付き合わされて、雪原の中で雪玉をぶつけられて、散々な目にあったが、……悪く、なかった」
「うん……うん」
「夜遅くに茶に付き合わされたこともあった」
「うん、……」
「季節外れの吹雪の中ホグズミードに行ったこともあった」
「うん」
と過ごす景色を前にして、私はどう感じていただろう。
当時は、何も思い起こさなかった。
だが、いま振り返ると、いかに尊いものだったかが、わかる。
「
いくな、」
無意識のうちに、私は呟いていた。
ははっと目を見開いて、堰を切ったように、ぼろぼろと涙をこぼしはじめる。
そうだ。死にたくないのは、辛いのは本人だろうに。
心臓のあたりがきりきりと痛み出す。
もしがマグルではなければ。
私が、いくらでも助けてやるというのに。
「日本では、輪廻転生っていう考え方が、あってね」
鼻をすすっていたが、顔を上げて言った。
「死んでしまっても、生まれ変われるの」
の背後に、ひらひらと舞い落ちる桜の花びらが見える。
まだ早いだろう、散るには。
「もし生まれ変われたら、今度は
先に私を見つけて、セブルス」
の姿が遠のいていく気がして、私はの手を引き、手繰り寄せた。
その背中に、はらりと桃色の花びらが舞い落ちる。
一年前の、光景と重なった。
昨年ここを訪れた際も、の頭に落ちた花びらを手に取った記憶が、唐突に蘇ってくる。
タイムターナーで一年前に戻れるのなら。
いや、戻れたとしても、私に何ができたというのか。
不意にの身体から力が抜け落ちる。
驚いて顔を覗き込むと、これ以上ないほど幸せそうな笑みを浮かべて、目を閉じていた。
セブルス。
本当にありがとう。
幸せだったよ。
あなたのおかげで。
のそんな声が聞こえた気がした。
2021.1.8
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