夏の終わりが近づく。
帰省していた教師が戻り、ホグワーツに少しずつ喧騒が蘇る。
新学期に向けた準備に慌ただしくなった。
そんな折、例のごとくが私の自室にやって来た。
「ねえ、セブルス」
は持参した紅茶を注ぎながら呼びかけてくる。私は新旧の教科書を整理するため、書棚に向かっていた。
茶など飲んでいる暇はないと言ったのに、は「そういうときこそ落ち着いて休憩をしたほうがいい」などとぬかす。
を放置しておくと、勝手に話しはじめた。
「この前も少し話したけどさ……夏と言ったらやっぱり海だと思うんだよね」
「断る」
話が先に行く前に、私はきっぱりと告げた。
「もう、まだ何も言ってないじゃない!」
の顔は背を向けているので見えないが、眉を吊り上げているか、唇を曲げているかに違いない。
「海などに行ったところで何をすると言うんだ」
「え、それはもちろん、……泳いだりとか、砂浜で遊んだりとか」
「くだらない。ここの湖で泳いだらいいだろう」
「えーっ。泳ぎたいんじゃないよ、海に行きたいの」
「だから、何のために?」
「何も。ただぼんやり眺めているだけでも落ち着くでしょう、海って」
「そんなことのために、わざわざ出向くのか?」
「ダンブルドアも、海はいいって言ってたよ」
またダンブルドア、か。こいつは私を誘い出そうとするときに都合よく校長の名を出す。
たしかにホグワーツの一教師である以上、校長の意向には反論しにくい。
が、それにしても。
「……ダンブルドアはおまえに甘いな。安易に外出許可を出しすぎだ」
私がため息を吐くと、は微かに笑って、「ダンブルドアは理解がある先生だから」と言う。
何の理解だ。大方自由だとか子供心だとかその類だろうと想像はつくが。
「それにほら、ミノカサゴの棘とか、青サンゴの化石とか、魔法薬のいい材料も見つかるかも」
「どこまで深く潜るつもりだ。店で買ったほうが遥かに効率的だろう」
が必死に探したらしい口実を、私があっさりと跳ね除けると、は「むう」と唸り、黙った。
まったく、海に行きたいなど本当に誘ってくるとは。相変わらず突拍子もないことを考える。
ただ。
こいつがホグワーツにいるのは、一年限り。
『来年からは日本を離れられない事情があって、自由になるのは今年だけだったの。だから、今年は、想い出がたくさんあるホグワーツで過ごしたかった』
だから、何かと私を誘い出そうとするのだろう。
それならば、……。
「セブルス・スネイプ!」
いきなり扉が勢いよく開いたかと思うと、叫び声混じりで呼びかけられ、私は振り向いた。
まさか。
髪には白髪が混じり、髭も生えているが、この男は間違いなく
。
「きさま
こんなところで、よくものうのうと生きていられるな!」
男は大股で私のもとに近づいてくる。
そして、私の胸ぐらを掴みかかった。
一心に私を睨みつけてくる。
「本当にホグワーツの教師になっているとは……きさまなんかが……!」
私のローブを掴む手が、がくがくと震えていた。
「ダンブルドアはきさまを許しても、俺は絶対に許さない」
男は
ネイトは、杖を取り出して私に向けた。
が立ち上がるのが視界の端に見えた。
その音で、ネイトはを認識し、に視線を移した。
「あんた、出て行ってくれないか。これは俺とスネイプの問題だ」
そう、だ。私も、にはこの場から立ち去ってほしかった。
を巻き込みたくはない
というのは綺麗ごとで、知られたくない、というのが本音かもしれない。
「あなたは、誰ですか?セブルスに何の用ですか」
私の希望をよそに、はネイトに訊ねる。ネイトは目を見開いた。私を開放し、杖を持っていた手を下げ、に向き直った。
やめろ、と双方に言いたいのに、声が出ない。
「“セブルス”?あんたこそ、こいつとどういう関係だ」
「私は……彼の友人です」
「友人?冗談だろ」
ネイトは吐き捨てる。
「こいつが何をしたのか知っているのか?」
ネイトは挑発的に、に喰いかかるように訊ねた。
やめろ、……。
「こいつは、この薄汚い溝鼠は、俺たちの
不死鳥の騎士団のスパイだった。そのせいで、俺の妻は死に、子どもは聖マンゴで一生治療を受けなければならない!」
「……やめろ」
ようやく絞り出した声は、ネイトの大声にかき消されてしまった。
それ以上言うなと伝えたいのに、私の身体は動かない。
いや。私は、聞くべきなのだろうか。ネイトの怒りを。
何より、ネイトの言葉は真実だ。
かつて闇の陣営にいたとき、私は間者として不死鳥の騎士団を探っていた。私の進言で襲われた不死鳥の騎士団のメンバーも、いる。
私は。
「俺の妻だけじゃない!ジェームズとリリー夫妻を死に追いやったのもこいつだ!」
何もかもに目をそむけたくて、私は瞼を閉ざした。
思い出したくはなかった。
あのときの絶望感を。虚無感を。罪の意識を。後悔の念を。
「こんな悪魔のような男を、それでもおまえは友だと呼ぶのか!?」
ああ、これでまたも去ってゆくのだろう。
戻ってきたを遠ざけていたのは、こいつが憎いからというよりも
私のしたことを知れば、も離れてゆくだろうと思ったからかもしれない。
光を手に入れるために闇の道を勇んで進んだ私は、結局光にも闇にも馴染めなかった。
そう、悪魔ですらない。
私は、いったい何だ。
「知って
います」
がゆっくりと口を開く。
「話は、聞いています。それでも私は、セブルスを大切な友人だと思っています」
なん、だって?
知っている?私がしたことを?
いや、
そうか、おそらくダンブルドアが話したのだろう。
あのお節介な老人が、余計なことを。
「な……んだと……?」
私以上に、ネイトが驚愕しているようだった。
「スネイプは……こ、こいつは!こいつの本性は!薄汚く、悲惨で、闇に堕ちている!いつ裏切るかわからない、そんなやつを、」
ネイトはに掴みかからんばかりの勢いで怒号を上げた。
しかし、は落ち着いていた。
「あなたも、相当に辛い思いをされた
されているのだと、思います。心からお悔やみを申し上げます」
ネイトは理解できない、という表情をして、手を震わせながら杖を振り上げた。に、向けて。
そして、くつくつと肩を震わせて笑いはじめる。
「そうか、そうだ、わかった!それなら、スネイプを俺と同じ目に遭わせてやればいい」
ぞくり、と背筋が震えた。
「やめろ、こいつは関係ない」
「いや、スネイプ。きさまの“友”だというなら
それ以上の間柄だというなら、大いに関係あるさ。きさまに、俺と同じ思いをさせてやる」
馬鹿な。
私はネイトに手を伸ばすが、ネイトはすると身をかわした。
「やめろ!」
ネイトの口が「アバダケダブラ」と動くようすが見えた。
その閃光がに当たり、が動かなくなる
。
全身に鳥肌が立った。
私も杖を取り出す。
ネイトを傷つけるつもりで攻撃しなければ、が死ぬ
。
「そこまでじゃ」
私の悪夢は一瞬で覚める。
気がつくとネイトの杖が吹き飛んでいた。
ダンブルドアが、開かれたドアの前に立っていた。
身体中が脱力して、私は杖を持つ力がなくなったようで、押し込むように杖をローブにしまった。
「ネイト。きみが回復してわしに会いに来てくれたことはうれしかったが……やはり本当の目的はセブルスじゃったか」
ネイトは死喰い人の攻撃で重傷を負っていたはずだった。回復して、私のもとに来たのか。
「あなたもやつの味方ですか、ダンブルドア。なぜです!」
近づいたダンブルドアのローブにしがみつき、ネイトが叫ぶ。
「スネイプのせいで……多くの人間が死んだ……こいつのせいで、……こいつが、我々を嗅ぎ回っていたせいで……」
「それはまごうことなき事実じゃ。しかし、セブルスは、自らの罪を認め、傷つき、償おうとしておる。わしは本当のセブルスを信じておる」
信じている、か。
重い言葉だ
。
「ネイト。きみの傷みは計り知れぬ。しかし、セブルスやを討つことで、きみやきみの大事な人たちが救われるじゃろうか?そのことをよく、考えてほしい」
ダンブルドアは、まるで泣き叫ぶ子どもに対するように優しく言った。
ネイトは絶叫するように喚きながら、その場に崩れ落ちた。

ダンブルドアがネイトを連れて部屋を出てゆく。
ネイトはそのときに、私に向けて言った。
「おまえのことは絶対に許さない」
許さない。その言葉を、いったい何人に言われただろう。
部屋の静寂が私を切りつける。
まだネイトがここにいて、罵詈雑言を浴びせられていたほうがましだったかもしれない。
しかし、が震えるようにふう、と息を吐いたことで、私に音が戻ってくる。
危うくが殺されるところだったかもしれない。
私は、唐突に、何もかもから逃げ出したくなった。
人生の苦楽が詰まるこの箱庭からも、暗闇しかないこの世界からも。
“無”でいられる場所に行きたい。
そうだ。が、言っていたではないか。
「
先ほどの話」
考える間もなく口にすると、がはっとしたように顔を上げた。
「行こう」、と言うと、は「え?」と返す。
私は答えた。
海だ、と。

もはやどのように来たのかは覚えていない。意識したとき、私の足は柔らかな砂を踏みしめていた。
さあ、さあ、とどこか心地のよい波音が空間を支配している。
灰色の空の色を映した水面は、どこまでもどこまでも続いていた。
まるで私を歓迎するかのごとく、海は大きな手を広げているように見える。
母なる海、とはよく言うもので、たしかにここならすべてを拒まないような気がした。
「セブルス!」
の声とともに、ローブがぐいと引っ張られる。
気がつくと私の足は海面に踏み出していた。
一瞬、私を引き止めたのことを心から恨んだ。
このまま進めればよかったのに、と。
しかしその思いは急速にどす黒いもの包まれて消えてゆく。
いつも私の中を覆っている、薄暗い闇。それが今は、深淵の暗黒のようだった。
もう、疲れた。
私は、なぜ生き永らえているのだ。
『スネイプのせいで……多くの人間が死んだ……こいつのせいで、……こいつが、我々を嗅ぎ回っていたせいで……』
ネイトの言葉が嫌でも蘇ってくる。
そうだ。私のせいで、死んだ。
憎かった相手も。かつて同じ学び舎で声をかけあった者たちも。
リリーも。
刃物で心臓をえぐられたような痛みに、目を瞑る。
この虚無的な傷みをやり過ごすには、無でいるしかないと、学んでいた。
どれくらいそうしていただろう、目を開けるとの姿がなかった。振り返ると、が離れたところに座っていて、どこか遠い場所をぼんやりと眺めていた。
私はその隣まで歩いてゆき、どさりと腰掛ける。
がいなければ、私はここで楽になれていたかもしれない。
しかし、がいることで、懺悔の言葉も吐き捨てられるのかもしれない。
「私は、」
頭で思考する前に、口が動いていた。
「
許されたいわけじゃ、ない」
私を許さないと言ったネイト。
ネイトからすれば、私がのうのうとホグワーツで教職に就いていることは納得がいかないのだろう。
私は贖罪のためにそうしているわけではない。
ただ、無意味に、生を受けているだけだ。
それならばいっそ。
「それじゃあ……私と一緒に、死ぬ?」
の声は小さいにもかかわらず、波音に消されずに耳についた。
何を言い出すのだと、まじまじとを見てしまった。冗談のつもりだと思った。
だが、の表情も瞳も柔らかく、口先だけで言っているようには見えなかった。
死へ向かうのが独りではない、その事実があるだけで、一足先に踏み出せてしまいそうになる自分が愚かしい。
しかし
これ以上、この虚無感を抱えて生きるのは、疲れていた。
「それも……悪くない、かもしれない」
私は息とともに、吐き出していた。
はどう答えるだろう。まさか本当に私と心中するつもりではないだろうが。
不意に、左手にぬくもりを感じた。
の右手が、私に重ねられていた。
温かなその手に、いかに自分が冷えていたのかを悟る。
こうして人と触れ合うなど、いったいいつ以来だろうか。
「セブルスは、温かい。まだしっかり、ちゃんと、生きてる」
と重ねられた部分だけ、熱を持ってくる。
「生きている間にしかできないことが、ある。セブルスにしかできないことがある。セブルスのことを必要としている人もいる。だから、……」
の声は、尻すぼみに震えてゆく。
の顔を横目で見ると、ぼろぼろと涙をこぼしていた。
こいつが泣くなんて。
本来、泣く女ほど厄介なものはないと思っている。
だが
普段は気丈なの涙は、尊いと思った。
「どうしておまえが泣く」
なだめることもせず、私は問いかけた。むしろこのまま、こいつの涙を見ていたいと思った。
「セブルスが、泣かないから」
喉を震わせ、が答える。涙を拭おうと、私の手を離そうとした。
が、私はそれを上から掴むように、の右手を覆った。
人の体温と、涙。
どちらも温かい。背筋がじんと震えた。
私たちは日が暮れるまで、ひと言も交わさずに、そのままでいた。
その時間が今の私にとって一番、ありがたいものだったかもしれない。
2018.5.23
ヒロイン視点:
5 ---
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セブルス視点:
5 --- 6 ---
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